2024年10月31日
今年(2024年)の夏のこと。
別に悪いことをしたわけではないが所用のため桜田門の警視庁に行った。
用件を済ますのにずいぶん時間がかかってしまったが、なんとか全て済んだ。気持ちが解放されたせいかタバコを一服吸いたくなった。こういう絶対タバコが吸えないような場所に来ると余計に吸いたくなる。ああ、どうしても一本だけでいいから吸いたい。
庁内の廊下を歩いていると制服の警官とすれ違ったので一応ダメで元々、聞いてみた。
「あの、喫煙所は無いですよね」
警官は思わず「え?」と言って少し迷った目をしてから、
「この廊下の突き当たりの左側にドアがありますから行ってみてください」
と教えてくれた。教えない方がよかったかな、という顔をちょっとした。
突き当たりに行ってみると妙にその辺りだけうす暗い。廊下の天井を見上げると、曇りガラスに覆われたクラシックな形の照明器具がぶら下がっている。中には黄色っぽい光の白熱電球が入っているようだ。
制服の警官が教えてくれた左側のドアは他の部屋のドアとは違って木製だった。ドアの上半分には縦縞模様のガラスがはまっている。どこにも喫煙室とは書かれてはいない。ここなんだろうか。
廊下のこの辺りだけのうす暗さといい、この近代的とは言えない木製のドアといい、喫煙室かどうかの問題よりそれが不思議に思えた。今の警視庁は建て替えられて何年経つのだろう。完成当時の廊下の照明や、ドアの仕様はこういう物だったのだろうか。そして何年か経ち、改装したがここだけ取り残されているのか。いや、そうとは思えない。しかし決定的にこれはおかしい、と結論づけてしまうほどのことではないようにも思われる。
そっと丸い真鍮製の取っ手を回してドアを開けてみた。十人ほどの私服の捜査員と思われる人達が仕事をしている。近くにいた何人かが私の方を見た。その中の一人から、
「何かご用でしょうか」
と聞かれた。髪を短く刈った四十代くらいのがっしりした体格の捜査員だった。私は部屋を間違えたと思った。
「あ、いえ、間違えました」
と答えて慌ててドアを閉めようとすると、
「タバコじゃないんですか?」
と聞いてきた。私は何と言っていいかわからず黙っていると、
「ああ、いいんですよ。こちらでどうぞ。ハハハ」と、にこやかに室内の片隅にある椅子を勧めてくれた。椅子の前のテーブルには灰皿が置いてある。
「いやあ、むさ苦しいとこですがな、ここで遠慮なくやってください。ハハハ」
と言った。
私は警視庁の中でタバコが吸えることに驚いて本当にタバコを出していいのか躊躇していると、刑事らしい男は、
「お持ちじゃないんですか?じゃこれどうぞ」
と自分のポケットからタバコを取り出し、ソフトパッケージをゆすってタバコを一本飛び出させ、私に勧めた。
「あ、いえ、いえ、ありますから」と言って私は自分のポケットからiQOSを取り出しスイッチを入れた。刑事らしい男はiQOSを見て一瞬珍しいものを見たような、イヤな物をみたような目をしたような気がした。しかしそのことには触れてこなかった。ちなみに刑事が勧めてくれたタバコは「いこい」だった。
彼も私の前の椅子に座り、飲み屋のマッチのような小さな箱マッチを取り出し、慣れた手付きでマッチをすり、一緒にタバコを吸い出した。
真夏なのにエアコンは効いていない。扇風機がいたる所で回っている。
近くを通りかかったもう少し年配の刑事かと思われる人が私を見て、
「やあ、タバコの方ですか。こう暑くちゃやりきれませんなあ。一雨欲しいですなあ」
などと言っている。
この人もそうだが、私たちの父親の時代に流行ったような、白い開襟シャツを着ている捜査員が多い。中には粋に麻の背広にハンチングという刑事もいる。
チョーさんとかヤマちゃんとか呼び合っている。
机上の黒電話が鳴る。
そういえばどの机にもパソコンが見当たらない。黒電話と黒い紐で綴じられて積まれた書類。ペン立て、インク、それと灰皿。
そういえばここでは今タバコを吸っている場所だけではなく、どこでもタバコを吸っていいようだ。自分の席、歩きながら。みんなよく吸う。部屋は煙でもうもうとしている。
一緒にタバコを吸っていた刑事が
「せっかくいらしたのだから食事でもどうですか。なにかとりましょう」
「いやいや、とんでもない。一服したらすぐ出ますから」
「まあそうおっしゃらず。丼物かなんかでいいですか?」
実を言うと、腹が猛烈に減っていたのだ。なにしろ朝、何も食べずに家を出てもう夕方近いのだから。
「あ、それじゃあ、お金は払いますから」
「いや、いいんですよ。これも公費で出ますから」
彼はそう言うと近くの机の電話器から受話器を取り肩に挟みダイヤルを回して何か話した。
「じゃ、ちょっとお待ちください」
と言って仕事に戻って行った。
私は図々しいとは思ったが、もう食事を頼んでくれてしまったのだし仕方がない。食べて行くか、と同じ椅子に座り続けていた。
外を都電が走っているような音がかすかに聞こえた気がした。え?と思い外を見ようとしたが、この部屋には窓というものがなかった。
もう一本iQOSを吸っているとドアが開いて、白衣の上下と白い帽子、ゴム長を履いてオカモチを持った、まだ十代じゃないかと思われる若者が注文したものを届けにきた。
「へい、お待ち遠さま。ここに置きやす」
向こうの方でこれを頼んでくれた刑事が、
「おう、ケンちゃん、いつもすまないね」
と言った。
私はこの部屋の中だけじゃないんだ、と思った。
そして彼は私に手振りで、
「どうぞそこで食べてください」
とやった。
瀬戸物の丼の蓋を開けてみた。案の定「カツ丼」だった。典型的なカツ丼だった。普通、店屋物の丼物には小皿に入った漬物が付いていたりするものだか、これには付いていなかった。私はそう、それでいいと思った。
腹が減っていたので思わず行儀悪くガツガツ食べていると視線を感じた。騒がしかった部屋がいくらか静かになった気がした。私は目を上げなくでも誰に見つめれているのかは想像できた。部屋の全員がカツ丼をガツガツ食べる私を満足そうに、しかし表情には出さず見ているのだ。
今でもあの部屋はあるのだろうか。どなたかあの部屋の真相をご存知の方、いらっしゃいませんか?
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