「東宝映画のロケ地を訪ねる」TOP


クレージー作戦 先手必勝 (1963)監督・久松静児


開始より0:08(東京都渋谷区渋谷2丁目)

「サラリーマンは気楽じゃねえなあ」

♫ 帰りに買った福神漬けで 一人寂しく冷や飯食えば
古い虫歯がまたまた疼く 愚痴は言うまいこぼすまい
これが男の生きる道

「あー、バッチリ行きてえなあ」

ああ、なんという素晴らしい歌だろう。
さて、1962年に古澤憲吾監督により「ニッポン無責任時代」「ニッポン無責任野郎」の二本の植木等主演作品が製作され、大ヒットする。クレージー映画のスタートだ。その次に作られたクレージー映画三作目が本作品「クレージー作戦 先手必勝」。監督は駅前シリーズを多く手がけられている久松静児監督。前二作とはまた違った味わいの作品に仕上げられている。

無責任サラリーマンの上田ヒトシ(植木等)は喧嘩で警察のご厄介になり、勤めている会社をクビになる。
上田が会社を去るシーン。



(撮影・2016・03・22)
↑ 上田がしょぼくれた顔をして階段を降り、会社の外へ出る。




(撮影・2016・03・22)
↑ この会社を出る場面のロケ地はどこだったのか。それを探る材料は、うなだれた上田が向こうへ歩いて行く、このわずか1カットから探すしかない。

この1カットには何が写っているのか。画面の右側には先ほど上田が階段を降りてきた会社の建物がある。建物の外壁には浮き出た文字が見える。しかし角度が斜めすぎてよく読めない。建物に面している道路は車道も歩道もかなり広い。そして向こうに向かって下り坂のようだ。その他に写っているものは遠くにビルがいくつかと、あとは木造の建物くらい。
これでここがどこだか分かるのだろうか。




↑ まずビルの外壁に浮き出た文字の判読を試みる。Photoshopでなるべく正面向きに補正。するとなんとか「◯◯ヤマピア◯」のように見える。袖看板にピアノの絵があるので「◯◯ヤマピアノ」か。植木が建物から出るカットの右端に何か表示があるが全部は見えない。一番見える一コマで「フク」まで読める。これで全文字判読。「フクヤマピアノ」だ。
ところで「フクヤマピアノ」って何だ。ピアノを扱う楽器店だろうか? 調べると、これはかつて存在したピアノメーカー(正確には製造を外部に依頼したピアノブランド)だということが分かった。
「フクヤマピアノ」の本社、支社、販売店、ショールームなどがあった場所を検索するが出てこない。行き詰った。

植木の行く手にビルが見え、屋上に「オリエンタル」と書かれた広告塔が見える。「オリエンタルカレー」の広告だろうか。これも分からない。
行き詰まったまま数年。

「麻布 田能久」さんから連絡。

「あそこ、分かりましたよ。渋谷の青山通りですよ」
「なんで分かったんですか?」
「まず、あの道路の広さですよね。それと下り坂。それで探していたら植木が出てきたビルが残っているので見つけました。画面ではわからないですが都電の線路もあったはずですよ」

やっぱりすごい、この人は。


↑ 1969年(映画撮影の6年後)住宅地図(提供・「麻布田能久」さん)

↑ そうなってくると「オリエンタル」も見つかった。ビル名だった。方向もばっちり合っている。しかしこれは現在解体されていて存在しない。仮にあったとしても現在では手前にそびえる「渋谷警察署」に遮られて見えないはずだ。そういえば植木の歩く先に、大きめの2階建ての木造建物が見えた。あれは当時の「渋谷警察署」だったのだ。

(協力・「麻布 田能久」 さん)


撮影地ストリートビュー




開始より0:17(東京都世田谷区用賀4丁目)

「待った、待った、待った、その喧嘩待った!まあまあまあ、双方のお腹立ち、もっともでございますが、ここは大道、諸人の迷惑、交通の妨害、ひいては警察の介入ともなれば双方さんともブタ箱のご厄介、どのみち喧嘩は得のいくもんじゃございません。ここはあっしに任せちゃくれやせんか」

失業した上田が始めた商売は資本いらずの「よろずまとめ屋」。 世の中に尽きることなのい「もめ事」の仲裁を買って出る新商売だ。
上田は喧嘩で警察に捕まった時、留置場で知り合った安井(安田伸)と、とある街を歩いている。すると早速なにやら揉めている二人を見つける。



(撮影・2014・10・14)
↑ 植木らの向こうに2軒の商店が見える。左側の店は暖簾に「中華そば」と書かれている。中華料理店だったようだ、右側の店は赤、白、青がクルクル回るサインが見えるので床屋だろう。




(撮影・2014・10・14)
↑ その先の広い場所で二人の男が喧嘩をしている。砂利や石が置いてあるのが見える。背景には資材置場のような屋根。画面左には何やら線路のような二本の線が見える。




(撮影・2014・10・14)
↑ 上田らが喧嘩の仲裁に入ろうとすると、上手をいく仲裁屋が現れる。「喧嘩頂戴業」を名乗る花木(ハナ肇)だ。
背景には壁面に「用賀新東宝」と書かれた映画館。その左側に「用賀ストアー」と書かれた店がみえる。食品スーパーのような店だろうか




(撮影・2014・10・14)
↑ この画面では「用賀新東宝」の右側に、先ほどの中華料理店、床屋が写っている。こういう位置関係だったのか。

このシーンが何処でロケされたのかは、テレビ放送で初めてこの作品を観た時から気になってしかたがなかった。
背景に「用賀新東宝」という映画館が映り、その左隣には「用賀ストアー」という食料品店(あるいは当時よくみられた何軒かの店が集まった食品マーケットかもしれない)が映る。その手前はかなりな面積の空地のような状態。石材や砂利が置いてある。「用賀新東宝」「用賀ストアー」という看板から考えれば世田谷区の用賀なのだろう。しかし検索サイトでは「用賀新東宝」「用賀ストアー」の情報が出てこない。映画館については、かつて用賀に映画館があったことまでは分かった。映画館はその後廃業してストリップ劇場になったという記述もみつかった。しかし場所の特定にまでは至らず、気にはなっているものの、詳細は不明の状態だった。

そこへ「喜劇駅前団地」ではお世話になったSさんからのご連絡。ロケ地の詳細が分かった。
やはりここは世田谷区用賀で間違いなし。当時は東急玉川線(通称「玉電」)「用賀停留所」から近い場所との情報。玉電は1969年に廃止されているが、現在は東急田園都市線の「用賀駅」(地下駅)が通っている。 「用賀」に馴染みの無い人でも、その地名は首都高とつながる東名高速の起点として名高いと思う。
やっぱり用賀だったのか。
Sさんは空地のような状態の場所に線路が写っていることに着目、東急玉川線の分岐線を1963年の航空写真からそれを見つけたと言う。すごい。

行ってみた。植木らと同じように床屋と中華料理店だった建物の前を通って、あの空地のような場所に出る。眼前に整備された広場やバスターミナルと高層建築。おお、ここだったのか!感慨は大きい。
映画館は薬局が入ったビルになっている。「用賀ストアー」だった場所は銀行だ。中華料理店だった所はガールズバー。しかし建物は変わっていないようだ。床屋さんは現在も商売を続けられている。

映画のロケシーンの中で「ここはいったい何処なんだろう」という興味から始まったこの「東宝映画のロケ地を訪ねる」なのだが、このシーンの場所などは、まさにそういった興味を、とてもかきたたせてくれる場所だったのだ。



喧嘩をしている場面に映る二本の線、玉電から分岐してこの敷地に入る引込線の線路の終端が、画面からも航空写真からも確認することができる。
映画撮影当時は、付近を流れる多摩川で採れた砂利を、この引込線に貨物電車が入り建設資材として運んだらしい。その貨物電車を「砂利電」と呼んだという。
この敷地は将来、玉電の車両基地として整備する計画だったが、実現することなく玉電は廃止になった。

(協力・「1960年代の百合小と百合丘」さん 文中・Sさん)




↑ 「用賀新東宝」の入口には、上映中、あるいは上映予定の作品が描かれた看板が掲げられている。 6本の作品名が見えるので試みに判読し、調べてみた。6本とも新東宝作品ではない。

⚫︎「売春姉妹の告白」 (1956 アメリカ)(1963大蔵映画配給) 監督 W・マール・コンネル
⚫︎「悩殺女体絵巻」 (1963 大蔵映画) 出演 一条ゆかり 三原葉子
⚫︎「海女の怪真珠」 (1963 大蔵映画、東方影業社(台湾)合作) 出演 梅若正二 泉京子  監督 小林悟
⚫︎「ギャング対Gメン」 (1962 東映) 出演 鶴田浩二 梅宮辰夫 千葉真一  監督 深作欣二
⚫︎「望郷の海」 (1962 日活) 出演 小林旭 金子信雄  監督 古川卓巳
⚫︎「激しい河」 (1962 日活) 出演 高橋英樹 和泉雅子  監督 牛原陽一

調べてみると、「売春姉妹の告白」「悩殺女体絵巻」「海女の怪真珠」の三本併映は大蔵映画1963年のお正月興行であったようだ。
「クレージー作戦 先手必勝」は1963年3月24日公開なので、これは撮影時期的に不都合はない。
大蔵映画は新東宝の取締役、大蔵貢が退陣して設立した会社である。1961年に倒産した新東宝からの配給がとだえた後の「用賀新東宝」は、大蔵映画作品を封切り館として上映し、東映、日活など他社作品は製作年から推定して、いわゆる二番館(封切館の後で遅れて上映する映画館)として上映していたのではないかと思う。
それにしても大蔵映画、タイトルがいいいよなあ!
「用賀新東宝前」部分動画



撮影地ストリートビュー



 巡礼メモ 1



放置自転車の指導員をされている方がいらしたので声をかけさせていただいた。

「用賀には長くお住まいなのでしょうか」
「もう60年くらいになりますよ」
「ここが昔は映画館だったということを聞いたのですが」
「そうそう、ここは映画館でね、その後、アレになっちゃってね」
「ストリップですか?」
「そうそう」
「映画館の時はどんな映画をやっていたんでしょう」
「天地茂とかね、そういうやつだったな」

ああ、もう間違いない。ここが「用賀新東宝」だ。
(撮影・2014・10・14)



 巡礼メモ 2



この撮影地が不明だった頃、ここはもしかしたらオープンセットなのではないか、と疑ったことがあった。
オープンセットというより撮影所の敷地内。まず喧嘩をしている空地はその時使用されていなかった撮影所内。セット製作の材料、あるいは廃材が散乱している。「用賀新東宝」の建物はスタジオの外壁に看板などを取り付け、それらしく見せている。看板はリアルに汚され、「用賀新東宝」の「宝」の文字は切り抜き文字がとれてしまっているなど芸が細かい。「大衆食堂」の看板は屋号も書かれておらず、いかにも架空。「用賀ストアー」は白地に黒ペンキのごく簡単なデザイン。ここはあまり手をかけなかったようだ。
本気でそれも有り得ると推測していた。何故ここを用賀に見せたかったのかは理由がわからなかったが。

↓ ちなみにこの作品に下に示したようなシーンがある。お祭りのお神輿が商店街を練り歩くシーン。これ実はオープンセット。とてもよく出来ている。ここまでセットにこだわるのなら、用賀のシーンもオープンセット? と考えても無理もない。と言い訳したい。







開始より0:20(東京都世田谷区用賀4丁目)

「おー、やってる、やってる」
「放っちゃおけやせんなあ」
「おけないねえ」


映画館前での喧嘩の仲裁がきっかけで花木も仲間に加わり、今度は三人で歩いている。すると早速交通事故でモメている場面に遭遇する。狙い通り商売のタネは尽きないようだ。



(撮影・2016・03・21)
↑ 商店と住宅が半々くらいの街角。上田ら三人が用賀から歩いて来たのだから、もしかしたらここも用賀なのだろうか。用賀でした。




(撮影・2016・03・21)

↑ 三人が歩く右背後に「木村精米店」と書かれた看板が見える。

↓ どうやら道路の角で事故を起こしたらしい。言い争う二人の運転手(加藤春哉・清水由記)の向こうの角に商店が写っている。ペプシコーラの看板が見える。食品関係の店か?



(撮影・2014・10・14)


↑ 角の商店の看板を拡大してみると「食料品の山田屋」と読める。現在も同じ屋号の店が同じ場所に。ここで間違いない。




 巡礼メモ 3



角の「食料品の山田屋」さんで、ご主人にお話を伺うことができた。
現在ではたばこ店をされている。画面のプリントを見ていただき、

「こちらのお店が昭和38年(1963)に撮影された映画に写ってらっしゃるのですが、ご存知でしたでしょうか」
「家内が植木さんたちがこの近所で撮影したのを見物したと言ってますよ。私は覚えていないんですがね。うちがここで店を始めたのが昭和35年(1960)なので、3年後だったんだなあ」

とのこと。お話を伺う時は不審に思われないように、
「実は趣味で、昔の映画に写っている場所を探して回ってるんですよ」
と聞かれもしないのに説明することにしている。そうしたら、
「いい趣味をお持ちですね」
と言っていただけました。よし!がんばるぞっ!

(撮影・2016・03・21)




開始より0:26(東京都渋谷区恵比寿西2丁目)

「ひと月や、ふた月、仕事が無いからって、そんな弱気はくなよ」
「しかし社長、人間、メシ食わなかったら生きていかれませんよ」
「またそういうありふれたことを言う、君ねえ、メシなんてのは生まれてからずーっと食ってるんだよ、もう飽きてもいいよ」


ああ、なんという素晴らしいセリフだろう。さて、仲間はさらに増え、クレージーの7人プラス紅一点、中山(中尾ミエ)の8人になり、上田が社長、「よろずまとめ屋」は会社組織になり、事務所を構える。ところが仕事はなかなか舞い込まない。

黄色い電車が走っている。この線路脇に事務所がある。黄色い電車は総武線ではなく山手線だ。黄色だった山手線の車両はこの作品公開の1963年から順次、そのままの色で総武線に転属にななり、山手線はグリーンの新型車両に入れ替わっていく。しかしこの場面ではまだこの黄色い山手線が写っている。方向幕には「山手」と表示されている。
遠景に鉄橋が交差しているのが見える。



(撮影・2013・02・24)

「ここで間違いないと思います」
「麻布 田能久」さんからメールをいただいた。
渋谷と恵比寿の中間くらいの所かあ!
遠景に見える鉄橋は東急東横線が渋谷を出て山手線を跨ぐ鉄橋だ。

現在写真の東横線鉄橋部分を拡大してみた。
かろうじて鉄橋が見える。葉の茂る季節だったら見えないかもしれない。
拡大してみたら、偶然東横線が通過中だったことに気付いた。東横線はこの写真撮影日の約3週間後の3月16日、渋谷から代官山間が地下化され、この鉄橋は解体されることになる。

今でこそ恵比寿にオフィスを構える、といったらたいしたもので、自慢になるのだが、作品では洗濯物やふとんが干してあるといった演出がされていて、事務所といった場所ではない、という描き方になっている。

(協力・「麻布 田能久」 さん)


 巡礼メモ 4



このシーンの巡礼に出かけたのは東横線が地下化させるのが間近い快晴の日曜日。東横線の渋谷駅をはじめ、いたるところでカメラを持った鉄道ファンの方を見かけた。

この写真は山手線と東横線が交差する件の鉄橋から、すぐ近くのところにある山手線をまたぐ歩道橋。この写真を撮った時、ちょうど山手、東横、両線の電車が同時に交差して通過していた。その瞬間を撮影する鈴なりの鉄道ファン。

(撮影・2013・02・24)





開始より0:40(神奈川県川崎市麻生区百合丘1丁目・小田急線百合ケ丘駅付近)

「駅前商店街をボイコットしましょう〜! お願いしま〜す!」

ある日、やっと彼らが嗅ぎ付けたもめ事は、団地マダムと商店街とのもめ事。
団地マダム達がトラックの荷台に乗り、ボイコットを叫びながら地元商店街を走行して行く。
ここはどうやら新駅として開業してそれほど年月が経っていない小田急線百合ケ丘駅(1960年3月25日開業)の南側の商店街のようだ。

駅前走行シーンは、この1カットだけでわずか数秒。
この百合ヶ丘駅の南口は「東宝映画のロケ地を訪ねる・喜劇駅前団地」「東宝映画のロケ地を訪ねる・喜劇駅前飯店」の調査で何度か見てきた。だからひと目で「あ、ここは百合丘だ」と分かったのだが・・・・。
しかし、この1カット、実はちょっと不思議な1カットなのだ。



(撮影・2013・02・03)
さすがに商店街ボイコットという場面なので、特定の本物の商店街を実名で登場させるわけにはいかなかったのだろう。百合丘とは言わず「すみれケ丘」と言っている。 しかしこの後の展開からしても、画面に写っている細部を見ても、ここは小田急線の百合ケ丘駅前で間違いない。
細部というのは以下のような点だ。たとえば。
↓ 下図で画面に説明を入れてみた。



↑ 車に乗った団地マダム達が、やや下り坂と思える道路を向こうに向かって走っている。
行く先左側に見えるのは手前から順に、百合ケ丘駅の二本のホームをつなぐ跨線橋の上部(百合ケ丘駅は切り通しになっているので跨線橋は上部しか見えない)、百合ケ丘駅入口、線路をまたいで南北を結ぶ陸橋(高石橋)が写っている。
走って行く車のすぐ先左側には駅前ロータリーに入る入口が見え、道路をはさんで反対側には石垣が写っている。現在写真でも同様にロータリー入口があり、分かりずらいが石垣が現在もある。
間違いなくここは百合ケ丘駅南口のバス通りだ。百合ケ丘駅の南側から線路越しに百合ケ丘駅の北側方向を見ている。間違いない。
(青矢印の「市川産婦人科」については次のシーンで。)

しかし画面の中で注目してもらいたいのが、線路の向こう側、百合ケ丘駅の北側方向の高台斜面にに団地建物が連なっているの様子。

完成して間もない百合丘団地? (百合丘団地は1960年から順次完成)
いやいや、百合丘団地はこんな方向には無い。百合丘団地はここから見える百合ケ丘駅の北側でなく、逆の南側だ。(「東宝映画のロケ地を訪ねる・「喜劇 駅前団地」参照)
映画公開翌年の1964年に撮影された航空写真で確認してみた。百合ケ丘駅の北側方面の高台には木造家屋と思われる建物が点在しているだけで、とてもこのような巨大な団地群は存在しない。現在ではけっこう大きいマンションも出来ているが。
では確かに画面に見えるこの団地群はいったい何?
わからない。そんなはずはない。どういうことなんだ。

結論。「合成画面」としか考えられない。百合ケ丘駅前の商店街を車で走るボイコット運動婦人たち。背景には団地。この構図が必要だったのだろう。
それにしてもこの合成画面、あまりによく出来ているので驚く。


撮影地ストリートビュー




開始より0:40(神奈川県川崎市麻生区百合丘1丁目・小田急線百合ケ丘駅南口前)



(撮影・2013・02・03)
次に団地マダムたちは、どこか人通りの多い場所で署名運動をしている。ではここも百合丘だろうか。

「東宝映画のロケ地を訪ねる」「喜劇 駅前団地」のロケ地を調べた際に、「弘法松公園」(こうぼうのまつこうえん)の、あの石のベンチがまだそのまま残っていることを教えていただいたMasterJOKERさんから、久しぶりにメールをいただいた。

MasterJOKERさんからのメール。
「おばさまが車で走っていくシーンの停車してるバスの向こうに「市川?産婦人科」という看板が見えますね?
そして「人」の字の下に青っぽい十字架マークがみえます。この看板が、この次のシーンでおばさんたちが署名活動をしている後ろでアップになります。「西生田駅前」という文字と「産婦人科」という文字と、先ほどの青い十字架マークが見えます」


おー!なるほど、なるほど!
(「西生田駅」というのは「読売ランド前駅」の当時の名称)

団地マダムたちが車で百合ケ丘駅方向に向かった後、この駅前広場で署名活動を行ったということのようだ。
この産婦人科の看板は当時、線路脇にあった百合ケ丘駅の敷地と、駅前広場との境にあった柵に沿って立てられていたようだ。柵の位置は現在、駅に隣接した商業建物と歩道との境目あたりになるはずで、当時カメラが設置された位置とそれほど違いのない位置で撮影できていると思う。

中央やや右の赤矢印はビル(当時百合ヶ丘ストア、現スーパーゆりストア)のそで看板だ。
この看板、「資生堂化粧品」と書いてあるとMasterJOKERさんは判読された。DVDでは絶対無理。HD放送を録画した「クレージー作戦 先手必勝」を見て、やっと判読できるか、できないか、そんな程度。これを読んだのは凄い!資生堂かあ!
この百合ケ丘駅付近は「喜劇 駅前団地」の他、「喜劇 駅前飯店」にも登場する。
両作品とも百合ケ丘駅前のシーンがある。もしかしたらこの看板、写っているかもしれない!
ありました!ありました!下図をご覧下さい。

↓ 一番左は「クレージー作戦 先手必勝」での団地マダム署名シーンを拡大したもの。
看板の一番上に資生堂のマーク、その下に「資生堂化粧品」。さらにその下に小さく何か書かれているが、さすがにそれは読み取れない。
真ん中は「喜劇 駅前団地」でフランキーが駅前にバーを開店したシーンの拡大。巡査の後ろに看板の下部が写っていて「ヶ丘ストア」と読める。先程読めなかった小さい字がこれだ。「百合ケ丘ストア」と書かれていたのだ。
一番右は「喜劇 駅前飯店」で、やはりフランキーが新規開店する中華飯店の建設予定地を下見に来るシーン。フランキーの後ろに看板が見えている。
この三つ、同じ看板なのだ。



「喜劇 駅前団地」(1961)
「喜劇 駅前飯店」(1962)
「クレージー作戦 先手必勝」(1963)

面白いのは、この百合丘が登場する三本の共通しているところ。それは三本とも久松静児監督の作品ということ。
久松監督は駅前シリーズを5本、手がけられている。
久松監督唯一のクレージー映画である本作、そこはかとなく駅前シリーズの香りが漂う。



より大きな地図で クレージー作戦 先手必勝 を表示




開始より0:41(神奈川県川崎市麻生区百合丘2丁目・弘法松公園)

「このうえは、あたくしども団地一族が一丸となりまして、商店街からは、たとえチリガミ一枚、メザシ一匹、絶対に買わないこと!」



(撮影・2013・02・03)
↑ 団地マダムたち、こんどはどこか公園のような場所で演説している。
ここは当時の百合丘団地に隣接していた弘法松公園(こうぼうのまつこうえん)だ。
「喜劇 駅前団地」では坂本九や久保賢らが登場して、当「東宝映画のロケ地を訪ねる」ではすでにご紹介した場所だ。
団地マダムたちの代表(沢村貞子)が、「喜劇 駅前団地」で、例の石のベンチがあった公園のてっぺんから下る階段の途中に机を据えて演説をしている。
その下の広くなった場所には何人かの聴衆がいる。




(撮影・2013・02・03)
↑ そこに現れた「よろずまとめ屋」のメンバーと商店街の会長。 ここは聴衆のいた広場の南東の角になる。公園に上がる階段があり、広場の柵は材質は変わっているものの、同じ位置にある。
作品の場面の向こうに見える「QR1」と書かれた建物は文化放送の社宅。




(撮影・2013・02・03)
↑ 「よろずまとめ屋」を見つけた団地マダムたちが演説のために机を置いた階段を下りて来る。
いやあ、ホントに変わらない。この作品はちょうど50年前の作品。こんなに変わらない所はない。あらためて感動。
たとえば階段の中で目に付く石を比べてみた。ちゃんと一致する。




(撮影・2013・02・03)
↑ マダムたちに追い立てられ、あわてて公園から道路につながる階段を下りる谷とハナ。




(撮影・2013・02・03)
↑ 商店街側を追い出して気勢をあげるマダムたち。
ここも石の階段、脇の石、変わらない。
弘法松公園、いつまでもこのままでいてほしい。
この公園を取り崩したりする計画が持ち上がったら、ここでタスキがけにプラカードで、反対集会の演説をしてもいい。




(撮影・2013・02・03)
↑ 公園を出てさらに逃げる谷とハナ。
この道も、舗装されたり、両脇に建物が建ったりという変化はあるが、道筋は変わらない。





開始より0:44(神奈川県川崎市麻生区百合丘3丁目)



(撮影・2013・02・03)
↑ ボイコット運動の会合が代表宅で開かれているとの情報で、会長宅に向かう商店街の会長と上田ら「よろずまとめ屋」たち。
ここはどこなのか。会長たちは階段を上がっている。背景に見える団地を見下ろす高台のようだ。画面の左端に弘法松公園が見える。

↓ 弘法松公園以外に何か手がかりはないだろうか。
上の場面の数秒手前は下のような場面だ。
あった、あった。団地の棟の一つに「105」と書いてあるのが見える。105号棟がここに見えるのか。





↓ ここで「東宝映画のロケ地を訪ねる・喜劇 駅前団地」では大変お世話になった「1960年代の百合小と百合丘」のSさんが製作された団地地図をお借りして考えてみた。百合丘団地が取り壊しになる以前の様子を表したものだ。
下図はその団地地図の一部を切り出し、書き入れたもの。

105号棟を見下ろす地点で弘法松公園がやや左方向に見える。撮影地点はこのあたりか。
すると撮影地点からすぐ下に見える、他の団地建物とは少し違った広い屋上の建物は団地の集会所だったということが分かる。その右にスターハウス(Y字型の団地建物)の109号棟が見える。
間違い無し。撮影地点は百合丘第二団地122号棟付近だ。




↓ そして以上のことから判明したことを植木らが階段を上がっている場面に書き加えると、次のようになる。
この階段、現在でも存在し、第二団地跡にできたマンションへつながる階段として活用されている。石垣も保存されている。





(協力: MasterJOKERさんとお兄様・1960年代の百合小と百合丘さん)
百合丘部分動画


 巡礼メモ 5

今回の百合丘での巡礼には、情報をお寄せいただいたMasterJOKERさんと、MasterJOKERさんのお兄様にも同行していただくことが出来、話がはずんで、大変楽しい巡礼になった。MasterJOKERさんとお兄様はここ百合丘、そしてこの作品当時の映画、ヒーロー物のテレビドラマにも親しまれた方だ。百合丘は当時、仮面ライダーなどのロケにもよく使われたらしく、ロケで百合丘に訪れた藤岡弘、さんと、MasterJOKERさんとのツーショット写真も見せていただくことができた。
お兄様も幼稚園の頃、あこがれのライダーやらイナズマンを目の当たりに見るわけなのだが、彼らは椅子に座って撮影待ちしたりしていたそう。子供心にも「作りもんなんだなぁ」とがっかりされたとか。子供の味方のヒーローもそこまでは気を配れなかった。
MasterJOKERさんとお兄様、当日は大変お世話になり、ありがとうございました。





開始より1:33(東京都港区六本木五丁目・旧麻布区役所/港区役所麻布支所・現港区麻布地区総合支所)

「よーし、わかった、みんな何にも言わずにドーンと付いてこい!さあ、再出発だ!ホンダラッダホイホイ!」

♫ ひとつ山越しゃ ホンダラッダホイホイ
もひとつ越しても ホンダラッダホイホイ
越しても越しても ホンダラホダラダホイホイ
どうせこの世は ホンダラッダホイホイ
だからみんなで ホンダラッダホイホイ ・・・・・・

ああ、なんという素晴らしい歌詞だろう。さて、いよいよラストシーン。
「よろずまとめ屋」はますます発展するが詐欺容疑で訴えられ、会社はバラバラ。社長の上田はまた留置所へ。上田が警察署から釈放された時、彼を待ち受けていたのは分裂したはずの仲間の面々、というのがラストシーンだ。
この警察署シーンは何処で撮影されたのだろう。これまで渋谷から始まり、用賀、恵比寿、百合丘と、広範囲を回ってきた。さて最後はどこだろう。



(撮影・2016・03・31)
↑ 警察署を出る上田。この場面だけではどこだかわからない。次の場面を見てみよう。




(撮影・2016・03・31)
↑ 上田の釈放を聞いて、お勝(池内淳子)が出迎えに来ている。
立て看板に「山手警察署」と書いてあるが撮影のための物だろう。「山手(やまて)警察署」という名前の警察署は横浜市にあるが、それとは違うと思う。東京の山の手を表した架空の警察署だろう。
お勝の後ろに「麻布会館」と書かれた看板(矢印)が見える。これも撮影のための物か? それとも本当に港区の麻布のどこかなのか?




(撮影・2016・03・30)
↑ 上田を出迎える仲間の面々。
警察前の道路の向こう側はコンクリート塀。門が道路から少し入った所にある。麻布だとしたら広大なお屋敷か?それとも・・・うーん。
「麻布田能久」さんが解明。「麻布会館」は実在した。昭和44年(1969)の住宅地図にちゃんと載っている。となると警察署に見立てたのは「港区立麻布公会堂」とある建物になる。向かいのコンクリート塀と門は「東洋英和女学院の幼稚園と小学校」(当時も現在も)だ。



↑ 1969年(映画撮影の6年後)住宅地図(提供・「麻布田能久」さん)




↑ 写真左:昭和10年(1935)に設置された「麻布区役所」。昭和22年(1947)、芝区、麻布区、赤坂区が合併して港区になった時から、「港区役所麻布支所」となる。住宅地図では「港区立麻布公会堂」となっているので、その後公会堂になったのか、あるいは公会堂を兼ねていたのか。赤楕円内の出入り口から植木が出てきた。

↑ 写真右:平成18年(2006)、同じ場所に建て替えられた現在の「港区麻布地区総合支所」(港区立麻布区民センター)。

映画撮影当時の港区役所麻布支所、あるいは麻布公会堂であった建物、その奥にあった麻布会館、東洋英和女学院の門。映画に写っていたものはみんな新しいものに変わってしまったように見える。何か「ここで撮影されたんだ」という物的証拠と言えるようなものは残ってないのか。・・・・あるのです。

H.Kさんという方から情報を頂いた。

「小さな扉 のようなものが付いている塀は、ラストシーンの背景に映り込むそれではないでしょうか?」

小さな扉? あっ!これかっ!

現地で確認、何だろう、この扉。鉄製で鍵がかかっている。確かに映画に写り込んでいる扉に間違いないと思う。扉だけでなく、それを囲むコンクリート塀もこの付近だけは当時と変わっていないように見える。
せっかく来たのだから記念に扉にちょっと触れてみる。写真も撮る。塀の中は東洋英和女学院の幼稚園と小学校。ジジイがあんまり怪しい行動をとるのもアレなので、早々に離れる。

H.Kさん、大発見ですね! 現地では思わず興奮しました。お知らせ、どうもありがとうございました。




(撮影・2016・03・31)

(協力・H.Kさん・麻布田能久さん)


撮影地ストリートビュー





開始より1:35(東京都港区六本木五丁目・永坂)

さて、上記の警察署前のラストシーンの中で最後のカット、ラスト中のラストは警察署を後にして上田ら七人プラスお勝の八人が踊りながら坂道を下って行くカットだ。そして「終」マークになる。

上田らは警察署の前でひとしきり「ホンダラッダホイホイ」と踊ったあと、警官に

「ご苦労さん! うぃ~っす!」

と挨拶して警察署の脇の方向に進んで行く。先程お勝が現れたのと同じ方向だ。ここでカットが切り替わり、八人が坂道を下って行くカットになる。ところが今八人が進んでいく道は、先程お勝が現れた道とは明らかに違う。
どう違うかというと、全然違う。お勝が現れた「麻布会館」の看板が見える道は平坦で坂道ではなかったが、八人が行く道は長い下り坂で、道幅もずっと広い。坂の両脇は石垣になっていて、これも先程とは違う。
これはいったいどういうことなんだろう。



(撮影・2016・05・03)
丁字路の角に建つ警察署脇に入ったと見せかけて、実は脇に入らないで警察署前の広い道路を左右どちらかに進んだのだろうか。
現地で見てみると警察署に見立てた「現 港区立麻布区民センター」に面した道路、これは「鳥居坂」と呼ばれる道だが、実際に坂になっているのは南に(警察署から見て左に)300メートルくらい行った先からであり、警察署の角からは脇道を含めて三方向どちらに向かっても坂ではないのだ。

ということは、お勝が警官におじぎをしながら去っていくこのカット、警察署前のカットからつながってはいるが、別の場所にカメラを移して撮影したと考えざるをえない。
ではこの「鳥居坂」を300メートル南下し、実際坂になった位置で撮影したのだろうか。道幅は似ている。しかしこんなに長い坂ではないし、道の両脇の様子もどうしても違う。

上田らが下った坂をよく見てみよう。下の写真のような特徴がある。




警察署に見立てた「麻布公会堂」、現「港区立麻布区民センター」付近を現地で少し見てまわるが見つからない。この地域は坂が多い。
帰ってからストリートビューで上記のような特徴の坂道があるか、もうすこし範囲を広げて見てみる。見つからない。
石垣や塀はもう残ってないかもしれない。しかし坂という地形や道幅というのは、そうは変わっていないはずだ。うーん、しかし見つからない。

ご覧の通り、別にどうということのない場所だ。坂の上なので遠くが見渡せるくらいが取り柄の場所なのだ。この1カットのラストカットを撮るために、わざわざ「麻布公会堂」から離れて遠くへロケに行くとは、どうしても思えなかった。近い場所に違いないと思うのだ。しかしこのような坂道はどうしても見つからない。

この撮影日は遠くが霞んでしまっているが、よく晴れた日には正面に富士山が見えるはずだったのではないだろうか。ラストのカットとしてはふさわしい。それなら少々離れた場所に行ってでも撮影する理由がある。たまたま当日は霞んでしまって富士山は見えなかったが、スケジュールの都合で撮り直しはできなかった。おー!これはいい考えだ。「富士見坂」という名前の坂や、西に向かって下る坂を当たってみる。見つからない。違ったか。
「Yahoo!知恵袋」で聞いてみる。ご親切なお答えを頂いたが、今ひとつ明確に合致しない。
「麻布田能久」さんから「東京の坂」に関するサイトを教えていただいて、二人で手分けして探す。見つからない。

遠くなのか。いや、そんなはずはないと思う。しかしこれだけ探して見つからないんだから、もうこんな坂、今は無いのではないか。・・・そうか!無いのか!
これがヒントだった。



1963年航空写真 国土地理院


↑ 「現 港区立麻布区民センター」の東方、200メートルくらいの所には首都高速(都心環状線)が通っている。映画撮影当時には存在しなかったものだ。もしかしたら首都高建設のために無くなってしまった坂ではないだろうか。
そう考えながら映画公開と同年の航空写真を見てみる。
上田らが行く坂道の左側は石垣の上が工事中のような感じに写っている。これをたよりに探してみた。
すると麻布公会堂(現 港区立麻布区民センター)から東に200メートルくらいの所で工事中のように見える一角があった。この当時工事中であった一角を左に見て道を進むと、現在ではわずか100メートルくらいで首都高速が通っている所と合流してしまう。当時は映画に写っているように長い坂だったのが、現在は首都高に分断されていたのだ。それにともなって坂の長さだけでなく、両脇の様子もまるで変ってしまっている。坂は無くなってはいないが大きく変わっていた。
この坂は「永坂」という。当時は500メートル近くも直線に伸びる長い坂(これが「永坂」という名前の由来だろうか)だったが現在は半分以下になってしまっていた。

ここだと見当がつくと、映画画面と航空写真で合致する部分がいろいろ見つかり、裏付けされる。
坂の長さは申し分ない。先の方で平坦になるのも現況と一致するし、坂の下った先に斜めに見える二階建ての建物も確認できる。
八人が向かう右手に、大きな樹木が道路にかぶさるように枝を伸ばしているのも航空写真で確認できるし、そのほぼ対面の石垣の上の建物も見える。

なぜここに場所を移したのか。クレージーら八人が道路いっぱいに広がって踊りながら進んでいく。撮影用に用意された何台かの自動車はそれを避けながら通る。麻布公会堂の前の道は路線バスも通る交通量、撮影の為の道路の占有が難しかったのかもしれない。それに、どうということのない場所、と書いたが、こんなに一直線に伸びる長い坂は珍しいかもしれない。

坂の下った先に斜めに見える二階建ての建物、あれは何の建物だったのだろうと思って参考のために住宅地図で調べてみると「警視庁麻布鳥居坂警察署」だった。
警察署に見立てた所から少し場所を変えて撮影したらまた見える本物の警察署。ああ、世の中って何て面白いんだ。という程のことでもないが、ちなみに現在麻布鳥居坂警察署は無く、警視庁の宿舎となっている。



1964年鳥瞰写真 港区麻布地区総合支所資料

↑ この鳥瞰写真は南北が逆になっているが、立体的に見えて分かりやすい。
1964年の撮影。映画公開の翌年の様子だ。首都高都心環状線はまだ出来ていない。首都高速都心環状線は1962年からオリンピック(1964)直前をピークに順次開通していくのだが、この永坂に接する部分を含む芝公園出入口-霞が関出入口間の開通が一番遅く、1967年7月4日だった。
「警視庁麻布鳥居坂警察署」はすでに警視庁の宿舎に建て替えられているようだ。現在はこれも建て替えられ高層化されている。




↑ このすっかり変った「永坂」で、唯一変わってないといえる道路にかぶさるように繁った木。これを近くで見てみた。「港区保護樹木」と書かれている。ロケ地特定の役割からも、確かにこれは「保護」に値すると思った。



撮影地ストリートビュー



(協力・「麻布 田能久」 さん)
ラストシーン動画

今回のロケ地特定につきましては、またまた多くの方のご協力をいただきました。ありがとうございました。


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