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上の方が新しい日付になっています。


2000年8月10日
『日本一の一発男』体験記

 60年代東宝作品関係などの著作、企画などを多数手がけておられる娯楽映画評論家の佐藤利明氏とはメールをつうじて懇意にしていただいていますが、今度、氏がプロデュースする番組がCS放送スカイパーフェクTV!のフジテレビ721で放映されます。
『リスペクト探Q大図鑑』がそれで、さまざまなジャンルにウンチクをかたむけようというもので、その第2回目放送分に『乾杯!サラリーマン諸君』という回があり(8月23日放映)植木等の無責任ものや森繁の社長シリーズなどがとりあげられます。
その中で西宝という架空の映画会社が作る『日本一の一発男』という劇中映画があり、なんと私がそのオープニングの『西宝スコープ』と東宝風に光り輝く映像を作らせてもらえることになりました。 先日の5日に麻布で『日本一の一発男』の撮影があり、見学ついでにエキストラで出演までさせてもらってきました。
植木等役をやる若い役者さんは、植木さんにそっくりというわけではないのですが、よく研究していて感心させられます。すごく植木風の茶色の背広(あと植木さん、グリーンなんかもよく着てました)が衣装なのかと思ったら自前だというのでびっくり。社内で課長(この人がまた似てるわけじゃないのに実に人見明!)の背中を「いよう!課長!」とたたくのですが、佐藤さんや監督の河崎実さんから「課長を課長とも思わないで、もっとおもいっきりいってください。異常なヤツなんだから」とゲキがとびます。
河崎実監督は古澤憲吾監督の伝統を継承しようとする本人役で出演もします。衣装が上下真っ白にサングラスでこれまた古澤監督そのもの!(あんまり見たことないけど)
その後屋上で間近にそびえる東京タワーをバックに植木等の例の踊り。
いやあ素晴しい!感激の一語!生きていてよかった!
佐藤さんが「スケールはちがうだろうけど、当時の撮影もこんな感じだったんじゃあないかと思いますよ」と一言。
いや、まったく。涙がでるほどのバーチャルリアリティーでした!
この番組は8月23日に放送されますので、フジテレビ721の視聴が可能な方はぜひごらんください!

左・おお、平成によみがえったあの風景! 右・河崎監督、案内役の山茶花究子、ウンチクの神、アサシン




2000年8月7日
あの京南大学の先生からメールが届いた!

 たまに「荻窪東宝」を見ていただいた方からメールを頂戴することがあります。どのメールも大変はげみになり、ありがたいことは言うまでもありません。
先日は慶應大学の教員をしてらっしゃる方からメールをいただきました。さすがにアカデミックな視点から東宝作品を見てらして、なるほどそういうことなのか、と思わずにいられないものでした。
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はじめまして、私、白井義昌と申します。
自己紹介いたしますと、昭和38年生れで現在慶應大学の経済学部 で教員をしている者です。大学生のころどういうわけか、昭和30 年代の東宝映画が好きになり、若大将、クレージーキャツ、社長 シリーズなどを毎週のように浅草東宝のオールナイトで見まくっ ておりました。
支配人様の「なぜ東宝なんでしょう」の「東宝作品の徹底した都会的エンターテイメントにひたって、当時の人々の生活ぶりに想いを馳せる、というのがとても楽しいのです。」 というくだりには、共感せずには居れませんでした。
やっぱり東宝の作品は明るく華やかですから。私は矢口書店で入手した 東宝友の会の機関紙「東宝映画」などをたまに見てタイムトリップしたりしています。

ところで、職業柄気になっていましたが、明らかに若大将は慶應の経済学部生という設定ですね。銀座の若大将では、出だしから左卜全教授がケインズの一般理論の講義をしていましたし(ちなみに講義の内容は本格的なものです。映画の中の黒板には正確なケインズの第一公準、および第二公準の公式が書いてありました。
これには僕は本当に驚きました。おまけに左教授は雄一の弁当を講義中に試食してこれはうまいと例の調子で言うのには本当に笑ってしまいましたが)、ハワイの若大将では平田昭彦教授が経済史の試験をしていまた。私は学生当時(1986年ころ)、ほんとに大学の雰囲気が変わってないなと思っておりました。
もっとも左卜全教授のような器のでかい先生はおりませんでしたが...

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(私からの返事のメール)
加山雄三さんの出身校でもあり、おっしゃるように若大将が在籍する大学の モデルになっている慶応大学の先生からメールをいただいたのは、まるで、 京南大学の先生からメールをいただいたような錯覚をおこしてしまいました。 とても光栄で、うれしいです。
左卜全教授の講義の内容についてのお話は大変興味深いことをうかがいました。
たしかにこういった部分がちゃんとしているか、いいかげんなものであるか は、それを分かる人が見たら、映画全体の印象はずいぶん変わってくるので はないかと思います。そしてそれがもし必要以上に本格的なものだとしたら、 とてもよい洒落ですよね。
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京南大学(?もうなりきっちゃてます)の白井です。

ところで、本当に東宝の映画は脚本の細かい ところがよくできていると思います。左ト全教授の講義内容についてさら に申し上げますと脚本家は意図的にケインズを用いたような気がして なりません。知識人(とくに大学の)たちの間では当時左派が幅を利か せていましたが、時代は高度成長期、先進国の仲間入りをしようとして いる日本の経済的活力を象徴するように近代経済学の代表格である ケインズの講義を映画でとりあげた点については脚本家の時代感 覚の鋭さがうかがえます。講義内容がマルクスだったりしたら、だい なしです。あくまでエンターテイメントであることを主にしていますから、 それらを思想的に主張するのではなく洒落のかたちで表現している 点はこれまた東宝映画のすばらしいところです。
特に、クレイジー、 若大将、社長シリーズではこの手の洒落(河合さんのおっしゃるハイレ ベルなギャグもふくめて)がたっぷり入っていて僕は大好きです。

気にいってるギャグとしては無責任野郎の藤山陽子と浦辺粂子の間 で交わされる会話で、(谷啓と結婚した藤山は谷の母である浦辺との 間で生活上のジェネレーションギャップで対立しています。毎日すこし ずつ洗濯をする戦前派の母に対して、現代派の藤山は週に一度洗濯 機でまとめて洗濯した方が水道代もういてよいと主張しています)
(藤山)「お母さまももっと社会的見地にたってくださいな」
(浦辺)「社会、社会って、あたしゃアカじゃないよ!」
というものです。僕は藤山陽子の熱烈なファンなので数すくない彼女 の出番の中でのこのギャグは贔屓目もあってか気にいってます。
ご存知のとおり、その後、浦辺粂子おばあさんは「バックル、バックル バックル!ストーップ!」ってな調子で時代に適応しちゃうわけですが、 どんどん移り変わる時代にたくましく生きていく日本の人々を明るく 応援するようなスタンスが東宝映画にはあっていいですよね。

そういえば、最近、五木寛之と塩野七生の対談集「おとな二人の午後」 という本を読んでいたら、こんな話が出てました。五木氏がドストエフス キー生誕150周年の講演の題名を「明るく楽しいドストエフスキー」にした 理由を次のように語っています。
「『明るく楽しいドストエフスキー』という題名は、ドストエフスキーを 笑いながら読むっていうロシア人のほうが、重厚に深刻に読むよりは正 しいってことを僕は言ってるわけ。だけどなぜこのタイトルをつけたかっ ていうと、ぼくはいつも即興で話をするものですから開演の前にどういう 題名にしようかなって、控え室で迷ってた。で、窓からむこうを見たら、 東宝映画の大きな垂れ幕がさがっていて、『明るく楽しい東宝映画』と 書いてあったんだ。それは東宝映画のキャッチフレーズなんですよ。 明るく楽しい、あっ、これがいいって(笑)。それで「明るく楽しいドストエ フスキー」って話をしたわけ。」
いい話ですよね。考えようによっては、(私は真剣にそう思って ますが)東宝映画はいわゆる芸術映画よりもある意味深いですね。
森繁社長じゃないですが、まさに「いいねえー、東宝映画」という感じ です。なんだかメイルが長くなってしまいました。すみません。
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何で東宝映画はおもしろいの? 何でスッと入っていけるの? 東宝らしさって何? という漠然としか考えていなかった、疑問とも思っていなかったあたりまえのことの一端を私はこのメールに見事に解き明かしてもらった気がしたのです。
これはぜひ私以外の東宝ファンにも読んでいただきたいと思い、承諾をいただき抜粋して掲載いたしました。




2000年4月13日
機種交換しました。

 携帯電話の機種交換をしました。
 私はそもそも携帯電話を持ったのは遅かったほうで、最初は携帯電話に変に反発していて、歩きながら電話している人などを見ると「ケッ!」とか思っていたのですが、時代の流れでそうも言っていられず、照れながら買ったのが3年くらい前。それからもう三回目の機種交換です。だって安いですものねえ。
 機能はだんだん増えてきて、もう難しくて難しくて。分厚いマニュアルが二冊もついてきます。やれアドレス帳だ、やれメールだといろいろなことができて、おじさんはもう何が何だか……。
 電話をかける時は受話器を持ち上げてダイヤルを回す。お話が終わったら受話器を置く。だけの時代はシンプルでよかったですねえ。
 あのころの電電公社の頃の電話機って、マニュアルがついてきたんですかねえ。「ダイヤルの回し方」とか「受話器の構え方」とかあったのかもしれません。
「脅迫電話をがかかってきて、犯人から電話を切られた時は、『もしもし、もしもし』と叫びながら受話器を置くところをガチャガチャ押すのがお約束です」とかね。
 「かけるボタン」と「切るボタン」だけのダイヤル式の携帯をカバンから取り出して、ダイヤルをジーコン、ジーコンやりだしたらカッコイイと思うけどなあ…。 カッコわるいか、やっぱり。



2000年2月26日
フォントのこと

 私のMacのために、欧文フォント(アルファベットの書体)がたくさん入ったCD-ROMのついた本を買いました。
「True Typeフォントパーフェクトコレクション」(発行・インプレス 深沢英次&インプレス編集部 編)という本です。
本の内容は、CD-ROMに入っている書体の見本が印刷されていることで、そのほとんどが費やされているのですが、最後の方の十数ページに、欧文フォントについての解説がのせてあります。それがとても興味深いものでした。

普段、なにげなく目にしている英文の広告や洋書や英字新聞。(読めないけど) そういう文に使われる書体にも色々ある、ということは分かってました。パソコンにもいろいろなフォントが最初から入っています。新聞の本文などに使われる、基本的に縦線が太くて横線が細く、先端にひげ飾りのついたもの。(セリフという。和文フォントの明朝体に相当する) また、見出しなどに使われることの多い、縦横、同じくらいの太さで、ひげ飾りのついていないもの。(サンセリフという。和文フォントのゴシック体に相当) 大きく分けてその二つの中にもものすごく沢山の種類があり、さらにいくつものバリエーションがある、というのもなんとなくは知っていました。
しかし、その沢山の書体に、それぞれの歴史があり、お国柄があらわれている、というようなことは今まであまり考えなかったことでした。
たとえばサンセリフで代表的な書体にFuturaとかHelvetica とかUniversというのがあります。3つとも私たちから見ればごく普通というか、これみよがしな特徴はないように見えます。しかしFuturaはドイツをイメージさせる書体で、Helvetica はスイスを、Universはオランダをイメージさせる書体なのだそうです。 (うーん、そう言われてみれば....やっぱり分かんない....)
同じくセリフではGaramondという書体はフランスをイメージさせるそうです。だからきちんとしたイタリア料理店ではこの書体を使わないそうです。 (えー? それフォント?)(シャレ)
この本はこうも書いてます。たとえば私たち日本人がアメリカの映画を見ていて、日本人とおぼしき人が出てきて、変な漢字が書いてあるTシャツを着ていたりすれば「えーっ!違うー!」って思いますよね。それは私たちが漢字に対しては敏感だからです。
もし高級な日本料理店へ入ったとして、まるで中国語のような書体のメニューだったとしたら「この店、ちゃんとしたもの出すのかな」と思ってしまいますよね。
なるほど、だから逆に私たちが欧米風と思って作っているものが、欧米人の目にはどんな風に写っているのか、とても興味があります。「笑っちゃうよな」なんて思われているのかもしれません。
この本の書体の解説はおおげさでなく、私には目からウロコでした。

うーん、書体。これは奥が深いぞ。



2000年1月4日
林家三平さん

 日記とか言ってるのに2ヶ月もさぼってしまいました。
どうも明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。
私、元旦から風邪をひいてしまって、まだ全然ダメな状態です。薬を飲んで厚着をして寝ると汗がびっしょり出て、それでいつもなら風邪なんて治ってしまうのですが、今回は寝汗びっしょりをもう2回もやってるのにまだだめ。こういう時って普通の状態って、なんていいんだろうってつくづく思いますよね。

年頭にあたり、っていう話ではないのですが、テレビでお笑い芸人を見ていたら突然、林家三平さんのことを思い出したので(熱のせいか?)書きます。
林家三平さん知ってますか?若い方はご存じないかもしれませんね。(ああ、そんなこと言う年になってしまったぜ)林家こぶ平や海老名みどりのお父さんです。
三平さんは新作落語の噺家さんで、伴奏にアコーディオンを従えたりしていて、かなり革新的な人でした。面白さは超一流で、風刺をしたり下ネタで笑いをとったりは一切せず、純粋にクダラナサを追求した人です。
そんな三平さんがこの世を去ろうとしている時、担当の医師が近しい人たちを三平さんの病床に呼び寄せました。
医師は意識の朦朧としている三平さんに「三平さん?分かりますか?自分の名前が言えますか?」と呼びかけると三平さんはやっと口を開き「加山雄三です」と答えたといいます。
わたしはこの話に猛烈に感動しました。ここまでできませんよ、普通。
私はべつにお笑い芸人ではありませんが、こんな人になれたらなあ、と心から尊敬できます。



1999年11月6日
ボカァしあわせだあ!

日本映画を愛する人たちが組織する会が催す上映会に参加できる機会があり、行ってきました。
今回の出し物は「日本一の若大将」。若大将シリーズ18作中でも最高傑作とする人も多く、私もビデオでは何回見たか知れない大好きな作品です。
同行してくれた友人(もちろん東宝好き)と二人でお茶の水にある会場に入り、今回の企画を立てられ、私にも参加のご案内をしていただいた娯楽映画評論家の佐藤利明氏にまずごあいさつ。佐藤氏は若大将、クレージーものなどの著作や、映画ソフトの解説などで、そのスジでは第一人者の方で、私はメールを通じて懇意にしていただいています。
すると佐藤氏は近くにいた女性の方を私に紹介してくれました。その方はなんと若大将の妹、照子役の中真千子さん。「日本一の若大将」から37年、現在でも照子さんの面影をたっぷり残した上品なご婦人、といった印象です。
上映が始まるまでの間、中さんと会話できる機会がありましたが、私はしどろもどろになってしまい、「今でも中さんが出演なさった若大将や社長シリーズはごらんになられますか?」とか「俳優さん仲間の方とは今でもご交流はありますか?」といった月並なことしか質問できませんでした。中さんはそんな質問にも笑顔で丁寧に答えてくれました。丁寧といえば、それは中さんの特長だと私は思っています。若大将シリーズでも照子役の中さんはいつもセリフを丁寧に、笑顔で話しています。そのまんまの中真千子さんがその時の私の目の前にいました。
中さんのお話の中で、堺左千夫さん(若大将シリーズでは「赤まむし」役、他に多数出演)が去年、亡くなられたのを聞いたのは堺さんが画面に現れるのをいつも楽しみにしていた私にはショックでした。

そしてこの作品を監督した福田純氏が来場、私の斜め後ろに着席。私の隣には中真千子さん、という信じられない状況でいよいよ上映開始。
これがまた素晴しい画質。キズや退色など全然無くもうバッチリ! 後で聞くとそれもそのはず、まだ映写機に一度くらいしか通してないニュープリントを東宝から借りてきたのだそうです。もう公開当時そのままの画です。

この作品は照子がお見合いをするなど、シリーズ中でも照子の出番が多く重要な役割です。スクリーン上では中さんが演技をしていて、私の隣にも37年後の中さんがいる、という不思議な状況は、映画鑑賞中はあくまでもスクリーン上が現在で、私は37年後の未来に連れてこられたような不思議な錯覚を生みます。
エンドマークが写しだされ、場内に拍手が起こり、私は中さんを見ると、中さんはそっと涙をぬぐっていたのが印象的でした。

上映の後に佐藤氏の司会で福田監督、中真千子さんのトークショーもあり、目の前にいるたずさわった本人の口から出る言葉にはやはり重みがあります。田中友幸、藤本真澄プロデューサーのこと、同時期の古澤憲吾監督のこと、海外ロケのこと、自分の映画の作り方のこと、などなど数々のエピソード。
長年東宝好きをやってますが、心からやっててよかった、と思えた一日でした。

左から佐藤利明氏、中真千子さん、福田監督、荻窪の若大将、友人の関口君




1999年10月22日
江原達怡さんの美術館

 またまた「似顔絵のお姐ちゃん」の作者、Kさんのことです。
 伊豆の堂ケ島にある「加山雄三ミュージアム」へ彼女が訪れた話は前に紹介しましたが、今度は若大将シリーズでマネージャー役などを演じてらした、江原達怡(えはらたつよし)さんが館長をしている美術館へ行ってきたそうです。いや、ほんとにスジガネイリの東宝ファンなので感服します。
 そこで彼女は思いがけない体験をしてきたそうなのですが、私が説明するより、彼女から私にいただいたメールを読んでいただいたほうが感動が伝わると思いますので、本人の承諾を得ましたので、ここに公開することにします。
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Kです。最近やたら寒いですがいかがお過ごしでしょうか。

こちらはもうえらいことになってました。
ちょっと長いけど最後まで読んでみてください。

今日、長野にある夢穂高美術館という所にお母さんとおじいちゃんと3人で 行ってまいりました。 館長は、あのラリー指導の江原たつよしさんです!

今年の夏にやった『メッセンジャー』という映画のパンフレットの中の 江原くんの紹介のとこでその美術館のことを発見しました。
そして「行けたらなあ」ではなく「行く」という思いの毎日でした。

そして今日、高速で間違えて通り過ぎて、二千円と時間をロスすると いう悪事態にみまわれつつも、なんとか無事に到着しました。

とても素敵なところでした。静かで景色もいいし。
その美術館には、俳優や歌手など、たくさんの有名人の絵画だけが 展示してあります。
八代亜紀はもちろん、加山さんや黒澤監督や夏木陽介さんの作品もありました。
おじいちゃんとゆっくり、たんねんにみてまわりました。

そして最後の最後に、な、なんと、あの佐藤允さんの風景画までもが 展示されていました!!うおおおお(笑)
私はもうくらくらするほどの驚きと喜びをその場でくらってしまって ちょっとおかしくなりました。
すごく佐藤さんらしい描き方で、私はこれだけでも行った価値がありました。

絵の上手い下手じゃなくて、描いた方の心というか、その人自身、その人らしさ がよく伝わってきました。良かったです。芸能人って、多才な人が多いですね。

館内には喫茶店もあるのですが、その入り口にすごいシロモノがあるんです。
それは、東宝オールスタートランプ!!もちろん当時の。
これ、ホント感動ものです。ちゃんと額にかざられていました。
1枚1枚に顔が描かれています(写真かも)。
東宝スターのみだから、三船さんはもちろん、佐藤さんも江原くんも平田さんも 中丸さんも重山規子さんもそして有島さんもいました。おいしすぎるでしょ!
ジョーカーはさすが別格、森繁さんです。

受付の人に一応聞いてみたけどやっぱり、もう絶対売ってないそうです。
展示されているトランプは、館長の宝物なんだそうです(*^^*)

そしてそこからさらなる大事件につながっていくのですが、 勇気を出して、しかしさりげなく「館長の江原さんのファンなんです」とかって 受付の人に言ってみました。
若大将とか、メッセンジャーも観たとか言ったら、なんかすごく喜んでくれて、 「館長、今日はお昼頃までこちらにいらしてたんですよー」 と教えてくれて、そうか、それは残念だったとしずんだのもつかの間、直後、
「今、館長に電話するからこちらに来てもらいましょう!」

!!!!は!?はー?・・・あーーー!!?
あまりの突然さにそれこそてんやわんやしてる私をしり目に、 受付の人は慣れた手付きですべるようにダイヤルをおしていき、ついに 62歳の江原くんと電話がつながったのです!

「もしもし?実は今、館長の熱烈な(←注目)ファンの方がいらしてて、  ええ若いお嬢さんで・・」

おおおいおいおいおい。ますますてんやわんやする私を知ってか知らずか、 受付の人は江原さんに、来れるかどうかをたずねていました。
すると、今お出かけ中でちょっと無理とのことでした。

ほっとしたのと、そうか、それは残念だったとしずんだのもつかの間、直後、

「今、その方とかわりますから」

と笑顔で私に受話器を渡してくるのです。
こんな展開ってありですか・・。
もう息がとまる思いで受話器に耳を近付け、私は声をふりしぼって言いました。

「もしもしっ(>0<)」

「ハア◯イ(^0^)v 」

う、うわああ、、、江原くんの声だ。昔とおんなじだ。江口さんだ(T_T)

その後は緊張し過ぎてはっきりとはおぼえてないのですが(/_-;)
電話をくれれば、用事がない限りいつでも来てくださるそうです!

というわけで、なんと江原さんと電話でお話してしまいました。みずいらずで。

「○○でさぁ」って感じの話し方で、すごく気さくでいい方だと思いました。
本当に、全然当時と声変わってなくて、あの甘くてちょっと高めの。
気分は照子さん(か、いいとものタモリ)でした。

なんか信じられません。まさに夢穂高でした。幸せすぎ。

結局その後はいろいろ疲れ過ぎてしまって(笑)
そこだけ行って帰ってきました。

夢穂高美術館、ぜんぶ最高です。またパンフレット送りますね。
河合さんもぜひ行ってみてください。
そして江原さんにもぜひお会いしてください。私もいつか会いたいな。

それでは。

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以上がKさんからの報告です。
Kさんよかったですねえ。
私はKさんが江原氏とお話ができたことが自分のことのように嬉しかったし、江原氏のファンに対する姿勢に感動しました。
やっぱり東宝の俳優さんはいい人ですね。



1999年9月27日
CG

 スターウォーズのエピソード1、まだ見てないんです。1978年の第1作公開の頃はあんなに夢中だったのに。
 これでけっこう私も東宝しかない、みたいに言っているわりにはアメリカのSFモノも少しはいける口で、1980年前後ころにはよく見たし、今でも好きな作品も多いです。
 たとえば月並かもしれませんが、エイリアン(1のみ好き)、ブレードランナー、未知との遭遇、バックトゥーザフューチャー(1・2)のあたり。(1967年の「2001年宇宙の旅」は別格として)
 このあたりから後はSFがだんだんと迫力のみ重視のアクションになっていったり、E.T.から後のスピルバーグやジェームス・キャメロンがあまり好きでなく(なんか、ヒットメーカーとしてのコツをつかんだ小手先だけの感動のような気がして。)しだいに興味が失せてしまったのですが。

 ルーカスがスターウォーズの最初の三部作を作った後、将来はコンピュータグラフィクス(以下CG)が発達して、もうミニチュアなんて作らない時代が来るだろう、と言っていて、私はまさかそんなことはないだろうと思ったのを覚えています。ところが本当にそうなってしまいました。だってあの頃のCGといったら単純な面で構成されたごく簡単なものでもスゴイスゴイっていう時代でしたからね。こんなものが本物と見まごうばかりの精巧なミニチュアワークにとって変わることができるなんて、どうしても考えられませんでした。

 それがターミネーター2あたりから本格的にCGが使われだし、ジュラシックパーク(話は変わりますが、ジェラシックパークと思っている人がすごく多いですよね。ジェラシックパークでは『嫉妬の園』になっちゃいます。それはそれで面白そうな映画ができそうですが)ではほぼ完全に従来の手法にとってかわり、以降の作品ではCGはごく一般的な、なくてはならない手法にまでなりました。
 もう、何でもできてしまうCGというわけです。めでたしめでたし。

 いや、ちょっとまってください。何でもできる、というところに、私は落し穴があるような気がしています。
 通常のやり方では撮影不可能なことを実現させるのが特撮。(SFXっていうんですか?)CG以前ではミニチャアをつかったり、実写と合成したり。見るほうもそれを承知で楽しむわけです。「わあ、よく出来てる!」とか「本物みたい!」とか「どうやって撮影したんだ?」とか。それが楽しみでした。
 それがCGだと、どんなによくできていても「だってCGでしょ?」の一言でかたずいちゃいますよね。
 昔はよかった、とか稚拙な特撮のほうが味わいがある、などと言いたいのではありません。言いたいのではないのですが、現在の私は正直言ってミニチュア、着ぐるみ、特殊メイク、などなど、昔ながらの手法の方にどうしても魅力を感じてしまいます。
 ジェラシックパークのテーマは「恐竜を現代によみがえらせること」ではなく、「CGってすごいでしょ」 だったような気がします。そういう映画としてとても面白く、私もわあ、CGってすごいなあ、と思いました。でもこれからはどうでしょう。
 しかし何でも表現できる優れたテクノロジーを手に入れたのですから、これからはCGがますます発達していくのは確かでしょう。そのかわり、どんなことでもできるのなら、どんなことを、どう表現するかのセンスはいままで以上に必要になってきたとは言えると思います。

 そういう私も大好きなCGシーンがあります。「フォレスト・ガンプ」の冒頭です。一枚の白い鳥の羽が風に舞いながら空をさまよっていて、うまい具合にカメラが追っているなあ、と思っているうちに、だんだん羽は地上に近づき、走る車の屋根をかすめ、ついにはベンチに座っている男の足下にふわっとたどりつき、男がそれをそっとつまむまでの数分をワンカットで見せます。私は、うわーっ、なんだなんだ、どうなってるんだ、と感動しました。そして映画の最後のシーンでもこの羽は登場し、またまた感動させてくれます。これが映画だなあ、と思いました。もしまだごらんになってなかったら、ぜひ見てください。このCGシーンだけでも300円(ビデオレンタル料)の価値は十分あります。

 なんだかいろいろ生意気を書きましたが、 最後にあるアメリカの特撮マンが言った言葉を紹介します。
「私達の仕事は皮肉なものだ。だって本当に完璧な仕事ができたときには、観客は誰もそれに気付くことができないのだから」



1999年8月21日
円谷プロのこと

 円谷プロダクションといえば知らない方はあまりいない思いますが、東宝のSF、怪獣モノや戦争モノなどで特撮の指揮をとられていた(作品では本編の監督と並んで特技監督とクレジットされている)円谷英二氏が興された特撮専門の制作プロダクションで、ウルトラシリーズの制作などで知られています。

 東宝大好き人間である私ですが、東宝との関係はファンとしてのほかは全くありません。しかしかなり間接的でもということなら、円谷プロでアルバイトをしたことが一度だけあります。それも30年も前のことなのですが。
 当時、大学の1年生か2年生だった私は、もっと子供の頃からの延長で特撮にはおおいに興味を持っていて、円谷プロの現場といえばたいへんなあこがれでした。ぜひなんとかアルバイトでもできないかと思い、募集していたわけでもないのにダメモトで円谷プロにおそるおそる電話してみると、なんと即採用。そしてまわされたのが『ミラーマン』の制作現場でした。

 円谷プロ設立の第1作はTBS系列で放映された『ウルトラQ』で、この好評により、『ウルトラマン』、『ウルトラセブン』といったシリーズへと発展するのですが、『ミラーマン』はフジテレビ系列のために作られた怪獣ドラマです。設定はウルトラマンなどと大同小異で、何でだか週イチのペースで現われる怪獣をヒーローがやっつけるというおなじみのものです。

 その『ミラーマン』の特撮関係の製作、撮影は、世田谷の砧(きぬた)にある東宝撮影所から近い国際放映(東宝系の制作会社)スタジオで行われてて、私はそこで約2か月間、仕事をさせてもらいました。そこでは役者さんなどを見かけることはなかったので、本編(特撮でなく出演者が演技する部分)は別の場所で撮影していたのでしょう。
 敷地内にある古い木造の、決して広くも快適でもない建物が私たちの仕事場でした。私以外に数人いたアルバイト達は皆、美術系の学生だったようでした。
 怪獣にこわされる建物のミニチュアを製作したりするのが私達の主な仕事でした。一番記憶に残っているのは、怪獣が空を飛行する時の撮影に使う30センチくらいの小さな怪獣を私ひとりで作らせてもらったことです。こういうことは模型作りが趣味であった私の得意分野だったので、美大生でもない私にもなんとかこなすことができたように憶えています。

 私たちアルバイトの仕事は楽なものでしたが、円谷プロの社員の人たちは本当に大変です。この人たち、いつ寝てるんだろう、という感じです。私たちアルバイトが仕事を終え、夕方帰って、次の日の朝出勤するとまだ昨日いた人たちが徹夜で仕事をしていたりします。仕事に対する情熱あればこその、ほとんど喧嘩まがいの打ち合わせなどもよく見ました。
 できあがった作品の試写も見るひまがないようで、実際にテレビで放送される時間になると、スタジオの近くにある喫茶店にみんな集まって、店のテレビを囲みます。特撮のシーンになると歓声があがったり、じっと見入ったり。私たちアルバイトの作ったモノが出てきても「あれ?映ってた?」「え?これだけ?」といったことが多いのですが。

 よい思い出をつくらせてもらい、ほんのわずかな一時期でも一員の片隅にいたという誇りを与えていただいた円谷プロに感謝いたします。    



1999年8月20日
がんばれジャイアンツ

 プロ野球では私はまあ、しいて言えばジャイアンツファンなのですが、うちの奥さんはすごい。コテコテのバリバリのジャイアンツファンです。ケータイのストラップには何やらマスコットがジャラジャラついてるし、Tシャツの背中にはMATSUIだとかKIYOHARAだとかプリントしてあるのを着ているしで、毎日のテレビ観戦はさぞや大騒ぎ、と思いきや、意外とじっとテレビを睨みつけているのは、かえって不気味ですらあります。
 面白いのはそうやってテレビを見ながら、ビデオにも録画をしているのです。試合に勝てば後でそれをうれしそうに見入り、負ければ消してしまいます。勝った時のテープはいつまでも消されずに残っています。
 昨日までジャイアンツは首位中日との三連戦だったのですが、神も仏もないものか、なんとジャイアンツは三つともやられてしままいました。落胆と不機嫌の頂点の奥さんはどうしたかというと、これが笑っちゃいます。ずいぶん以前にジャイアンツが勝った時のテープを引っぱり出してきて見ていました。それも中日戦のを。
 がんばってくれジャイアンツ。  



1999年7月23日
加山雄三ミュージアム

 「似顔絵のお姐ちゃん」の作者、Kさんは、伊豆の堂ケ島にある「加山雄三ミュージアム」にも行ってきたそうです。いやもうスジガネイリですな。
 その存在は私はなんとなく知っていましたが、Kさんからパンフレットを送ってもらって見ると、意外といってはなんですが、かなり立派なもののようです。これは行かなくてはいけないな、と思ってます。私が行かなくて誰が行くんだと思ってます。
 まず楽しそうなのがレストラン。「光進丸カレー」とか「田能久すきやき丼」とか「若大将ラーメン」とか泣けてくるような笑えてくるような。
 もうちょっとつっこんで「銀座ノースポール残飯鍋」とか「汲み取り口の蓋鉄板焼」とかあればいいのになと思いました。本当にあったら食べないかもしれないけど。
 画家・加山雄三の作品はもちろん、若大将シリーズの小道具の展示やセットの再現もあるらしいです。ああ早く行きたい。


1999年7月20日
プロマイド

 浅草にマルベル堂という老舗のプロマイド屋があります。当ホームページの「似顔絵のお姐ちゃん」の作者、Kさんがマルベル堂へ行って、団令子さん、佐藤允さん、江原達怡さんらのプロマイドを買ってきて見せてくれました。もちろんいちばん活躍していた当時に撮影されたものです。そういうのが今でも売られているんですねえ。行くところへ行けば、今でも現役という感じがしてうれしくなります。
 そしてマルベル堂ではプロマイドの撮影もしてくれます。Kさんも撮影してもらったそうで、あとで送ってくれたのですが、これがすばらしい! Kさんは大の三木のり平ファンなので、丸いメガネを鼻にずらしてかけて、上目づかいがもうバッチリ! 撮影技術もさすがの出来です。そして三木さん風のサインまでしてあって、何考えてんだといった感じで大笑いです。
 当然、わたしもそれに刺激されて撮ってきました。どういう趣向にしようかなあ、やっぱりスーツにピストルで渋い悪役かなあ、などと考えましたが、持っていこうと思ったおもちゃのピストルがみつからず、おまけに当日は台風みたいな大雨だったので、ふだんぎででかけました。撮影はプロマイド店とは違う場所のスタジオで行われます。衣装なども少しはあるようなので「ピストルはありませんか?」と聞くと「ピストルはないんですよねえ。カウボーイハットならあります」と言うので「あ、それならいいです」ということで、結局何も身につけないで(裸という意味ではなく)撮りました。
 できあがりに1週間ほどかかるのですが、その待ち遠しいこと。郵送してもらって見てみたら、なんだ、そのまんまじゃないか、もっとかっこいいはずなのに、と一瞬思ったのですが、でもそれはしょうがないですよね。いくらマルベル堂でも。
 私も自分のプロマイドにサインをして飾ってあります。何やってんですかね。
 ご希望の方にはおゆずりします。うそです。  



1999年6月5日
三木のり平さんの本

 三木のり平さんが自分の生い立ちや芸についての考え方などを語ったインタビュー集が出たので読みました。 『のり平のパーッといきましょう』(小田豊二著・小学館)という本です。
 三木さんはやっぱりすごいや、と改めて感じました。
 私たちは三木さんといえばどうしても社長シリーズの宴会部長、という印象なのですが、三木さんは「あんなものクソみたいなものだよ。くだらない映画だよ。」と言います。たしか以前に森繁さんも同じように言っていました。謙遜などではなく、本当にそう思っているのでしょう。あんなものだけで役者としての自分を評価してもらっては困る、ということだとも思います。でも私たちがそういう三木さんに楽しませてもらっているのは事実。そういう三木さんだからこそ、出来る役、ということは言えると思います。
 もし逆に三木さんが「社長シリーズ? ええ、あれはもっと評価されてもいいと思っています。私はあの作品に命をかけて取り組みました。」などと言われたら、社長シリーズが好きな人はむしろがっかりするのではないでしょうか。映画という仕事に対してナナメに構えていながら、誰にも真似のできない仕事をさりげなくこなしています。
 今あらためて社長シリーズを見ています。三木さん、おっかしいです。脇役だからあんまりしゃしゃり出てはこないけど、セリフが無いときでも目がしっかり演技をしています。

 『のり平のパーッといきましょう』はおすすめです。「僕は役者としての人生をきっちりやってきたつもりだよ。おまえもちゃんとやれよ」と教えてくれた気がします。
 三木さんはやっぱりすごいや。  



1999年3月15日
モータースポーツ

 スポーツ観戦にはあまり興味がないのですが、モータースポーツ(自動車レース)だけは大好きで、特にF1は毎年楽しみです。今年もいよいよF1が開幕して、「スカイパーフェクTV!」に入ってよかったとしみじみ思う今日このごろです。(地上波では録画なのですが、スカパーは生中継です)

 さて、若大将シリーズのマネージャー役などの江原達怡(えはらたつよし)さんは俳優現役の頃、モータースポーツがご趣味で、レースにも出場していたそうです。ラリーがテーマの『ゴー!ゴー!若大将』では出演は勿論、『ラリー指導』としても江原さんの名前がクレジットされています。
 私の友人もレースが趣味で、大学生の時(1970年頃)仲間の出場するレースの手伝いに富士スピードウェイというサーキットに行ったら、江原さんも出場していて、その応援に団令子さんが友達たち(俳優仲間だったのかもしれない)と来ていたそうです。
 まるで『若大将シリーズ』のシーンそのままを見るようではありませんか! 僕もその場にいたかった!



1999年2月27日
東京タワーに行きました。

 外国に住む知人が東京タワーのプラモデルがほしいというので、東京タワーまで行って買ってきました。東京タワーのプラモというのは、通常の模型屋ルートには存在しないアイテムで、東京タワーのおみやげ品売り場にしかないものだからです。
 地下鉄に乗って訪れた東京タワーは、以前モスラの幼虫に壊されたはずなのに何故か健在で(こんなしょうもないジョーク、年寄りでも言わない)あまりに久しぶりすぎて懐かしいという感じもなく、初めて訪れたところのようでした。(前回行ったのが、結婚前に奥さんと行ったらしいので25年も前。私は忘れたけど、奥さんが言うにはどうやら行ったらしい)
 展望台に登る覚悟で行ったのですが、一階のおみやげ売り場で目的のプラモを入手できたので、そのまま帰ってきました。どうも一人でこういう観光地へ行くというのは、気恥ずかしいものがあります。
 しかし団体客なども利用する大食堂はなかなか趣深く、昔のデパートの食堂のようです。私はそこで『タワースペシャル』(1150円。ポークソテー、エビフライ、タマネギのフライなどにライス、スープ付き)と、めちゃ甘いアイスコヒー(値段忘れた)の昼食をとりました。
 以上、所要時間約2時間の意外と楽しい東京オプショナルツアーでした。



1999年2月4日
役者の年齢

 三木のり平氏の訃報などに接すると、残念な想いをすると同時に、社長シリーズなどに出演されていた当時は何才だったのだろうと、つい計算してしまう機会にもなってしまいます。
 社長シリーズは森繁久弥が社長で製作されたのが1956年の『へそくり社長』から1969年の『社長えんま帖』までで、私が勝手に最高傑作だと思っている1962年の『社長漫遊記』を仮に全盛期として、これを中心に考えてみると、1925年生まれの三木さんは37才。もちろんご健在の森繁さんは1913年生まれの49才。1923年生まれの小林桂樹さんは39才だったのです。
 「へえ、意外と若かったんだ」と思いませんでしたか? 私も思いました。『社長漫遊記』の中で、社長に初孫が生まれて、家族から『おじいちゃん』と呼ばれると、『おい、おじいちゃんと言うのはやめてくれないか。私はまだ50には間があるんだ』というくだりがあり、私は「設定ではそうなのだろうけど、当時の森繁さんは40代ということはないだろう」と思っていたのですが、本当に40代だったので驚きました。
 なぜそう見えるのでしょう。『老けている』ということではないと思います。『時代』(ファッションであるとか、言葉使いであるとか)ということももちろんあるでしょうが、一番の原因は、今の私たちがまだ自分も若かった、あるいは子供だった時の映画を見る、というところにあるのだと思います。私たちは昔の映画を見る時、無意識のうちに自分を当時の自分に戻しているのでしょう。
 私は今49才。奇しくも『社長漫遊記』の時の森繁さんと同じ歳です。でも映画を見ていて、とても今の自分と同じ歳だとは思えません。だって私より森繁さんのほうが全然年上なのですから。そういうことです。

 しかし一般的に役者さんは実際の年令より少し若めの役を演じることが多ようですし、そのほうが自然に感じられます。1962年に三船敏郎さんは『椿三十郎』を撮っていますが、1920年生まれの三船さんは当時42才。映画の中で『あなたの名前は?』と聞かれて『私の名前は(庭の椿の花を見て思いつき)椿....三十郎、もうそろそろ四十郎ですが』という部分がありますが、本当に30代の三船さんだったらあの重さは出なかったのではないか、という気がします。
 若大将の場合はどうかというと、第1作の『大学の若大将』(1961)で1937年生まれの加山さんはすでに24才。学生若大将最後の『リオの若大将』(1968)では31才と、やや無理をした感じですが、これは若作りの二枚目ならではの特技ですね。
 もっとすごいのは1926年生まれの植木等さんで、『日本一のホラ吹き男』(1964)では、38才なのに平気な顔をしてガクラン姿で出てきます。流石。



1998年12月11日
荻窪ラーメン

 おいしいラーメン屋さんが多いということで、最近は荻窪という地名も結構、知られてきたようです。
 私は荻窪駅の近くで商売をしていますが、「◯◯というラーメン屋さんはどこですか?」とよく聞かれます。私の店のすぐ近所にも2軒ばかり、よく雑誌やテレビが紹介しているラーメン屋さんがあるので、そこだとすぐ教えられるのですが、ちょっと離れている店だと説明しにくいので、ラーメン地図というのを作り、コピーしておいて、聞かれたら渡そうとも本気で考えたのですが、それだと特定のラーメン屋からお金でも貰っているのではないかと思われそうなのでやめました。
 初めて荻窪に来た人は、「ラーメン通り」みたいな所があって、ラーメン屋さんがまとまってあると思っている方も多いようですが、そうではないのですね。点々と何軒かが、ほかの商店と混じってあるわけです。ですから、「荻窪はラーメンの街」みたいに想像して来てみると拍子抜けすると思います。
 そしてラーメンを食べた帰りの方の感想を耳にする機会もあるのですが、「思っていたほどではないな」という感想も少なからずあるようです。もちろん好みの問題もあるでしょうが、これは荻窪に限らず、想像していた傾向の味ではなかった、ということも多いのではないでしょうか。想像していたとおりの味でないと、なかなかおいしいとは思えませんものね。アイスコーヒーだと信じて飲んだらコーラだった時みたいに。(同じような経験あります? そういう時って、ものすごい味がしますよね)
 まあ、これは適切なたとえではなかったかもしれませんが、ひとくちにラーメンといっても千差万別、いろいろあるということです。
 私の考えたおいしいラーメンに出会う理想的な条件は、
『全く期待していない。あるいは頭が白紙の状態にあって、ものすごくお腹がすいていて、しかも寒い。そういう時にたまたま自分好みのラーメン屋に入る』
ということですが、いかがでしょう。暑い時に熱いラーメンがいいんだよ、という意見もあるでしょうね。でもお腹がすいている、というのは絶対条件です。味が4倍位違います。

 さて、私が最近、ラーメン屋さんに入って気になることがひとつあります。そのことについてちょっと書かせてください。
 それは『レンゲ』のことです。レンゲ、あのセトモノとかプラスチックでできている、中華スプーンです。あれって昔のラーメンに付いてました? ワンタンには付いていたと思います。でもラーメンには付いてないのが普通で(中華レストランのような高級店の麺類は別として)、付け始めたのはここ数年のことのような気がします。私はあれがきらいで使いません。使わない人にとってレンゲはすごくジャマなものです。(スープの中に沈没したりして)スープもドンブリを持ち上げて、ズズーッと飲みます。そのほうがおいしいと思うし、そのほうが街のらーめん屋の正しい作法としてふさわしいと思うからです。でもそれは私の勝手な考えであって、ラーメン屋としても本意か不本意か、時代の流れでレンゲを付けるようになったのでしょうから、使いたい人は使ってスープを飲めばいいでしょう。女性の方などはその方がよいと私も思います。ところが、ところがですよ、あのレンゲを左手に持って、右手に持ったワリバシで麪をすくいあげると、レンゲの上に麪をクルクルッとのせてチュルチュルッと口に運ぶ、あの不気味ともいえる食べ方は何なのですか? そんなことしてウマいんですか? 大の男が。それがグルメってもんなんですか?
 いや、つい興奮してしまいました。すみません。でも私、ラーメン屋にそういう人がいると、後ろに回って、後頭部をグッとおさえつけて顔をラーメンの中につっこんでやりたい衝動をおさえるのに、いつも苦労をしています。



1998年12月5日
なぜ東宝なんでしょう

 『荻窪東宝』の名のとおり、私は東京の杉並区にある、荻窪(おぎくぼ)というところに住んでいます。生まれてから荻窪をはなれたことがないので、もう50年に近くなります。(あー、いやだいやだ…。ずーっと荻窪に住んでいることじゃなくて、もうすぐ50才になることが)
 荻窪には現在、映画館が一軒もありません。しかし、昭和30◯40年代の映画黄金時代には、荻窪にも5◯6軒の映画館がありました。その中に『荻窪東宝』という名前の東宝封切館も実際にありました。このホームページのタイトルは、その名前を拝借させてもらっています。

 当時の映画館では、その映画館独自に作った「チラシ」を切符の半券といっしょに入口のところで入場者に無料で配っていました。B5版二つ折りくらいのザラ紙に、上映中の映画の簡単な解説などが印刷されているものです。そこには地元の商店の広告も小さなコマに仕切られてたくさん出ていました。私の家は商売をしていて(今もしているが)広告をいつも載せていました。広告を掲載した店には月に2枚の招待券がもらえるという特典があり、当時、小、中学生だった私はいつもそれを独り占めして、せっせと映画を見に行ったものです。子供のことですから怪獣ものや、特撮の戦争ものが好きだったのですが、いつもそういったものばかりではないので、何でも見ました。社長シリーズや駅前シリーズなどを小学生が一人で見ていたのを今考えると、なんだか不気味なものがあります。しかし、そうやって『東宝』が私の体にどんどん蓄積されて行き、ついには東宝なしでは生きていけない、まるでマタンゴのような人間になってしまったのです。
 しかし、作品を系統立って研究しているわけでもないので、そういう点はもっと若い世代の映画好きの方のほうが詳しいでしょう。私はまあ、東宝作品が肌が合うというか、東宝作品の徹底した都会的エンターテイメントにひたって、当時の人々の生活ぶりに想いを馳せる、というのがとても楽しいのです。

 ところで私は今まで、自分を加山雄三(若大将)だと思っていました。でもこのまえ、ふと、「いや待てよ、俺はもう加山雄三じゃなくて、有島一郎(若大将の親父)なんじゃないか?」と気がついてしまったんです。私の娘も来年から大学生、シチュエーションから言っても文句なく有島一郎なのですが、「いいや、俺は一生、加山雄三でいるぞ!」と心に誓った私でした。



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