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2008年11月29日
「落語、30年ぶり。」

あるきっかけで落語を聞きに行く。
中野にある「なかの演芸小ホール」という場所で、春雨や雷太という前座さんと、桂夏丸という二つ目さんが出演する落語会だ。お二人の他に色物として女の子二人の曲芸も入った。

落語は30年以上前によく聞いていた時期があった。当時は志ん朝、談志、円楽、小三治といったあたりが若手だった時代だ。テレビからカセットテープに録音して繰り返し聞いて笑った。

それから30年のブランク。
最近落語を聞き始めた若い友人が「この前寄席で、文楽の『目黒のさんま』を聞きましたよ」と言う。
「え?文楽って桂文楽?今、文楽っているの?」
「いますよ。知らないんですか」
「誰が文楽を襲名したの?」
「いや、文楽の前の名前は知らないんですけど」

いったい誰が文楽になったのだろう。すごく気になったのでネットで調べてみた。小益が文楽になったらしい。あのペヤングソース焼きそばの小益が・・・。
そのくらい落語界のことは知らずに過ごしてきた。

さて前座さんと二つ目さんの落語、これがなかなか面白かった。さすがプロ、というか、面白い若い人もいれば、あまり面白くない真打ちもいるということかもしれない。やはり落語は才能というか、もって生まれた個性かなと思う。
以前は新作否定派だったのだが、この日二つ目さんが演じた「子ほめ」は新作仕立てになっていて「ねえ、君、今度僕のうちに遊びに来たまえよ。女房も会いたがってるから」「えっ!課長、いいんですか!ぜひ御伺いいたします」みたいな新作は、新作とは言っても雰囲気が昭和30〜40年代から止まってるなあ、っていう感じで、これはこれで現在としていいんではないか、と思った。

以前に録音した落語のカセットを今せっせとCD化している。
不思議なことに、30年も聞かなかった落語をよく覚えている。「次にこう言うぞ」とわかるのだ。
若いうちに覚えたことは忘れない。

話は変わるが、最近エレキギターの練習をしている。笑。
ベンチャーズである。加山雄三である。
今は「十番街の殺人」を練習している。私にしてみればそうとう難易度の高い曲だ。なんとかようやく通して弾けるようになった。エレキのカラオケDVDなるものがあって、一人でデケデケ弾いている。
エレキを持ってるからには「十番街の殺人」と「ブラック・サンド・ビーチ」くらいは弾きたい。
しかしなんとか通して弾けるようになっても、なんと次の日には忘れてしまう。笑。
ところがである。何十年も昔に弾けた曲は今でも弾けるのだ。指が覚えているのだ。
やはり何でも若いうちに覚えておくべきだ。

何の話だか収拾がつかなくなってしまったが、そろそろお時間のようですので・・。


2008年10月03日
「虫が騒ぐ夜。秋だからか?」

プラモデルを作るのが好きだったのだが、寄る年波には勝てず老眼でこの趣味もままならなくなって久しい。
何年も以前は、古い車や建物の模型を作るのが面白くて、わざと汚したり、錆(さび)させたりして楽しんでいた。
今でもこの趣味の虫が騒いで何かやってみたくなる時がある。

居間にある照明のスイッチを錆させることにした。
家族が寝静まった夜中にゴソゴソ塗料を引っぱり出して錆を塗装で表現する。
面白い!なかなか上手いじゃないか!

次の日の朝。
奥さん「一晩でこんなに錆が・・・雨が続いて湿気が高かったからなあ」
娘「うわっ!何だこれ!漏電だよ漏電!」

あはは、だまされてやんの!
うちの家族はバカだ。いくら湿気が高くたって漏電していたとしたって、一晩でプラスチックが錆るわけがない。
三日経った。ちょっと心配になった。本当に漏電と思われて電気屋とか呼ばれたら困る。電気屋に何バカなことやってんですか!などと言われたくない。

「いや、実はね、あの錆、わしが描いたんだよね」
「バカじゃないの!信じられない!」
「元に戻してよ!」

もちろん元に戻すつもりはない。


2008年07月26日
「NHK、アナログ停波に向け「アナログ」ロゴ表示」

というニュース。
一応デジタルには対応済みだが、試しにアナログ経由でNHKを見てみる。
あ、ほんとだ!
しかし、こ、これって・・・・し、失礼じゃないですか!!
アナログ放送見てる人に。
でも子供の頃、画面の隅に「カラー」って出た時代もあったなあ・・・。


2008年04月25日
「第2回京南大学OB会」

去年10月の第1回に続き、19日は第2回目の京南大学OB会。
もう一週間が経ってしまった。

前回は若大将シリーズのロケ地にも使われた「浅草今半別館」だったが、今回はその名もズバリ「麻布・田能久」。幹事であるメタBOの若大将さんが探してきたのだが、へえ、そんな店があるとは知らなかった。
元、民家であった木造建物を改造して店舗にしてある。なかなか面白い趣向で隠れ家的だ。

もちろんすき焼き。これも美味しいのだが、メタBOの若大将さんが愛知から持参した八丁味噌で特別に作ってもらったらしい赤出しがものすごく美味かった。 メタBOさんは「田能久」のマッチ、箸袋、コースターの田能久布教三点セットに加え、田能久エコバッグまで作ってきてくれて参加者に配られた。

右の写真を見てほしい。病気の人たちの向こうに「田能久」ののれんがかかっている。これもメタBOさんが特注して前回のOB会の時にもあったのだが、その時にゲストとしてお招きしたK原さんが「K山さんに何とかサイン頼んでみますよ」と預かってくれていた。
それが先日、本当にサインが入って戻ってきたものだ!「K山雄三」と書いてあるのかと思ったら、「田沼雄一」と書いてあるのが写真でも見えると思う。

なるほど!「田能久のれん」にふさわしくてこれは素晴らしい!
K原さん、お世話様でした。

K山先輩!ありがとうございます!!
こんな奴らがいることを知っていただけただけで感無量です!!


2008年02月04日
「映画館貸し切り」

自主映画集団「HIT AND RUN」が立川にあるシネコンを借り切っての上映会に参加。
へえ〜。映画館が貸し切りができるとは知らなかった!
一般のお客さんを入れる通常の上映が終わってからの貸し切りなので、夜9時上映開始。映画館のスクリーンに映る自分!恥ずかしいけどこれはいい!冥土の土産になるな!
中央写真は前座に上映された私の撮った作品。映画みたいに見えるよ。不思議と。
貸し切り料金が私は安いと思う。2万円。これはやりようによっては使えるな!
加藤隊長、お疲れさまでした。またやりたいですね。


2008年01月28日
「サンダーバード21号と24号に乗る」

能登半島の和倉温泉という所に行った。
行きに金沢から和倉温泉駅までサンダーバード21号に乗った。
帰りには和倉温泉駅から金沢までサンダーバード24号に乗った。
サンダーバードは現在ではJR西日本が運行している。
車掌さんはとても良い人で、快適な旅ができた。






2008年01月10日
「松下電器産業は社名を」

「パナソニック」に変更、ブランド名も「ナショナル」を廃止し、「パナソニック」に一本化するらしい。
うーん、なんか寂しいぞ。パナソニックの冷蔵庫とか言われてもなあ。
じゃあ「ナショナル坊や」はどうなる?「ナショナルキッド」の運命は?
それは今さら関係ないか・・・・



2007年12月24日
「クリスマスイブの夜に」

私の自主映画仲間にサバイバルゲームを趣味にしている連中がいる。
彼等の作る自主映画はいつも戦いをテーマにしたものだ。
そのメンバーの一人、I君が結婚をすることになった時、彼の仲間たちは一編の作品を作って新郎新婦にプレゼントした。


いつも荒々しい戦いの作品を撮っている彼等からは想像できないロマンチックな作品だ、そして新郎新婦自身の出演ならではの感動があると思う。
この作品は披露宴の時に会場で上映されたらしいが、会場でこの作品を見た出席者の方々の驚きが目にみえるようだ。
余談だがこの作品の撮影は冬に行われたものではない。暑いのにコートを着ての演技には参ったらしい。そしてクリスマスケーキ。これは季節外れの時期に、不二家に事情を話したら特別に注文を受けてくれたそうだ。不二家も粋なことをやるじゃないか!
(下のはクリスマスイブ・スペシャルカラオケ)




2007年12月12日
「リメイク」

私はくっだらない自主制作ムービーを作って、誰彼かまわず見せたがる、という症状の病気持ちである。「そんなこと、今さら告白しなくても知ってるよ」という方も多いだろう。
しかし、まあ、聞いてほしい。
先月のことだが、一通のメールをもらった。英語だ。読めないので翻訳サイトを使って日本語にしてみる。
「私はアメリカのヴァージニア州リッチモンドに住む学生です。日本の怪獣やウルトラマンやアニメが大好きさ。今回、荻窪東宝製作の「夜の若大将・奴にかまうな」を参考にしてショートムービーを作ったので見てほしいあるよ」
だいたいそんな内容だった。

何!ひょっとしてリメイク!?

まずは荻窪東宝製作の「夜の若大将・奴にかまうな」(2002年製作)から見てほしい。


う〜ん、面白いのか?
まあそれは置いといて、次にアメリカ版。


おお!りっぱなリメイクだよ、これは!!
これはすごいことじゃないか?



2007年10月21日
「京南大学OB会」

今日は楽しみにしていた我が「京南大学OB会」。
7名の卒業生が参加。会場は浅草のすき焼き屋「今半別館」だ。若大将シリーズで外観が「田能久」のロケ地として使われている。
12時少し前、会場に着く。幹事さんであるメタBOの若大将さんが「今半別館」の仲居さんに「京南大学OB会の者ですが」と告げる。今日は「京南大学OB会」なのだから当然だ。しかし私はひっくり返りそうになる。
座敷に案内される。さすがなかなかの格調だ。中庭がある。二階に田沼の部屋がないかと探したが見えなかった。
すき焼きにビールで再会を喜ぶ。主に同窓生、田沼の話題に花が咲いた。


写真は
田沼の店「田能久」の封筒とマッチ。この二種のマッチの一つはメタBOの若大将さんの手作りしたもの、そしてもう一つは私も手作りして持って行ったもの。申し合わせたわけではない。考えることが一緒なので笑った。それにしても何故客が店のマッチを用意するのかわからない。
「田能久」の暖簾と後ろに見えるのが京南の校旗。メタBOさんが特注したものだ。「東宝ツインタワー屋上にて。ここは「ブラボー!若大将」のロケ地。


2007年10月13日
「裸婦デッサン」

何か習いたい願望があって、何かよいものはないだろうか、と探していた。
英会話、今更なあ・・・。茶道、華道、敷居が高いよねえ・・・。日本舞踊、とてもとても・・・。書道、うん、これはいいかも。でも大勢の中で習うカルチャースクールみたいな所はいやだ。できれば少人数、欲を言えば一対一。さらに欲を言えば先生は未亡人がいいかなあ・・・。

などと贅沢なことを考えていたのだが、昨日、急にデッサン会へ出席できることになった。 東京芸大の卒業生の方たちが中心になった集まり。私の地元にある公立の集会所を使って毎月行われているという会だ。知り合いが二人参加しているのでご一緒させてもらうことに。

あわてて近所の西友にスケッチブックと鉛筆を買いに行く。特にスケッチブックは「スケッチブックといえばこれでしょう」という超定番を買う。

会場へ着くとすでに始まっていて、和室の中央に裸になったモデルさんが座ったポーズをとっている。私も隅の方に座り早速スケッチブックを広げる。
私の絵を描く歴は、幼稚園のときのお絵描きに始まり、高校の授業で美術を選択したが、それ以来筆を折り(プッ)、以来、プラモデルに日の丸を描いたりする以外は筆を持ったことはない。芸大出身の方たちにまじって、そうとう無茶だ。
モデルさんは1ポーズ20分。だいたいの形を描くだけで時間になってしまう。5分くらいの休憩をはさんでまた違うポーズ。それを4回くらい描いた。
これは面白いかもしれない。しかし習い事とはちょっと違う。みんな勝手に描くだけだからだ。 よく「デッサン力」とか言うがよくわからない。なぜ裸婦なのか。それもよくわからない。まあ裸夫よりはいいが(プッ)


2007年08月17日
「おもいこんでいたこと」

昨日は40.9度を記録した地方もあり、これは観測史上最高気温だそうだ。どうりで暑いわけだ。

スポーツなどで日本記録、世界記録などという記録がある。
日本記録は日本の中での最高記録。世界記録は世界で最高の記録である。そんなことは私だって知っている。小学生の頃から知っていた。
「日本タイ記録」という記録もある。小学生の頃の私はこれを誤解していた。
まず世界の国々を抽選などの方法で、二つの国で組み合わせる。日本はタイと組み合わせられることになった。この二つの国の中で最高記録が出ると「日本タイ記録」だ。
同様に「中国・カナダ記録」もあるし「フランス・インド記録」もあるといった具合だ。
愚かだった。
「世界タイ記録」はどう理解していたのだろう・・・。
覚えていない。


2007年08月05日
「聖地巡礼」



森繁の社長シリーズ、植木等のクレージーシリーズ、怪獣もの、そして加山雄三の若大将シリーズなどといった1960年代の東宝作品が好きなのだが、これらの作品は製作されてから、もう50年近くが経とうとしている。
こういう作品を今見ていると、当時の街の様子などが映し出された時、懐かしいなあ、と思うと同時に、今、ここはどうなっているのだろう。という興味がわいてくる。

建物、道路、看板、商店、走っている車、歩いている人、何もかも今とは違って見える。しかし今もそのまま残っているものもあるのではないだろうか。そういう場所を探索してみたい、という考えは以前からあったのだが、あるきっかけで知り合いになった方から「それらのロケ地を訪れてみる計画があるのですが、ご一緒にいかがですか」というお誘いがあり、今回、同行させていただくことになった。
その方は愛知県にお住まいで、今回は東京出張の機会にロケ地探訪をされる計画のようだ。 8月4日、5日の2日間、早朝からびっしり廻る計画なのだが、私は5日の午後から同行させてもらうことに。

12時、有楽町の東宝ツインタワービルで待ち合わせ。
この場所から同行される方が、私の他にあとお二人いるらしい。その方たちを待ち、東宝ツインタワーへ。ここの屋上は「ブラボー若大将」に使われていて、当時の日劇などを一望するシーンなどがある。しかし屋上へは上がれず引き返す。
この日、東京は気温35度、私は最初の巡礼地、東宝ツインタワーを訪れただけで、すでに汗が吹き出す。しかし企画されたこの方はもう2日目。それも終盤にさしかかっている時間なのだ。

次に「フレッシュマン若大将」に使われている日産本社。
ここは建物がそのまま残っている。

次が「日本一のゴリガン男」で使われた国立がんセンター。
ここは当時の建物が無く、付近の様子もずいぶん変わってしまっている。しかし付近の道路や橋の位置から「ああここだったんだ」と分かる。「そうか。ここに植木等が立ったのか」

そこからいよいよ大和証券へ。
ここからもうおひと方が参加。

このビルは入り口付近、屋上が無責任シリーズ、社長シリーズなど、多くの作品に使われている。
私はここを訪れるのは5年ばかり前に続き2回目だ。
今回の企画を立てた方が屋上に上がれないものかと、お願いを試みるが日曜日とあって、ビルの人が不在で断念。

巡礼の行程を終え、コーヒーショップで水分を補給。持参のタオルのハンカチは、大げさでなく絞れば汗がしたたるほどだ。しかし楽しかった。

今日参加された方は20代から私の50代まで。昨日もおひとり別の方の参加があったそうだ。皆さん、東宝作品にはさすがに詳しく、私なぞ一番知らないと言っていい。
さらに驚いたのは愛知からいらした企画をされた方が、ロケ地、そして東京に詳しいこと。学生時代を東京ですごされたからだそうだが、それにしてもすごい。
そしてさらにさらに驚いたのが、この方の持つ雰囲気が誰に似ているというわけではないのだが、実に「東宝」なのである。
お世話になりました。


2007年07月30日
「感動の条件」

友人と話したことがある。

「濡れてもかまわない状態だったら傘なんかささないで、ずぶ濡れになって歩くのって、やってみたいですよね」
「いいよねえ。なかなかそういう状況ってないよね。全身ずぶ濡れ。で、空を見上げると顔に痛いほどバチバチ雨があたって、もう雨なのか涙なのか分からない状態・・いいなあ・・」
「ははは、なんで泣くんですか!」
「ははは、感動して泣くんだよ」

「ところで日本人て、ちょっとの雨で傘さしすぎですよね。僕はあんまり傘ささないんですよ」
「あ、ぼくも傘ささない派!」
などと傘ささない自慢に話はそれていったのであるが、それはいいとして、大雨の中、ずぶ濡れ状態願望が私にはあるのだ。

さて昨日の夜は友人と「おふろの王様」というスーパー銭湯に行った。
実はちょっと期待していることがあった。
昨日の東京はカミナリをともなった大雨。そのスーパー銭湯には露天風呂もあるし、外で寝そべるところもある。絶好の条件ではないか!
スーパー銭湯に着くと、うまい具合にちょうど大雨のピーク。
「さあ!濡れるぞお!」
サウナから出たあと、裸で大雨の中に寝そべる。
普段は結構混んでいるのに今日はあまり外にお客がいない。大雨だからか? こんなに面白いのに・・
空が光ってカミナリも鳴る。おお、濡れる濡れる!
さあ、感動するぞお、感動するぞお・・・

・・・・ん? こんなもんか? 意外と感動しない・・・

感動というのはむずかしい。さあ、感動するぞお、ではだめなようだ。感動は予期していないときに、いきなり訪れるもののようだ。

景色に感動したことが何度かある。

いちばん最初は小学校5年か6年の時。
林間学校で、御岳山のお寺に泊まったことがある。
夜、先生が「みんな、外に出てみろ」と言う。
私たち生徒が真っ暗な外に出てみて驚いた。
眼下に見事な雲海が広がっていたのだ。
月が出ていたのだろうか、雲が本当に白い海のよう見え、そこから頭を出した山々が島のように見えた。ほんとうに感動だった。
そんなものが見えるとは期待してなかったのだ。雲海など、気象条件などが揃わなければ、いつでも見られるというものではないだろう。雲海を見られるのは運かい? 失礼。

次はいきなり飛んで3年ばかり前のニューヨーク。
現地に住んでいる友人が「ブルックリン・ブリッジ」という橋を徒歩で渡るのを提案してくれた。マンハッタン島から対岸のブルックリンという地域へ渡る古い大きな橋だ。
夕方出発。橋の途中からは遠くに自由の女神も望める絶景だ。ブルックリンへ渡り着いた頃は、あたりも薄暗い黄昏時になっていた。公園のような所のくねくね曲がった坂道を登る。しばらく登ると眼前が開けた。足がすくんだ。
思わず出た言葉は「ちょ、ちょっと待ってよ」だった。
急に目の前に現れた景色は、海の向こうで黄金色に輝く摩天楼だった。
友人の見事な演出だった。いちばんきれいに見える時間を見計らってくれていたのだ。何も知らされないで急に見せられたその光景は一生忘れられない。

感動は予期しない時に突然現れるのだと思う。

「期待が大きいとダメだってことだよね」
と言われればそれだけのことなのかもしれないが。


2007年07月10日
「TOSHIBA 37H3000」

おとといの日曜日、地デジ・ハイビジョン対応の液晶テレビを購入。今まで10年くらい使ってきたブラウン管式のテレビが壊れたら液晶テレビを買おうと思っていたのだが、こういう時に限って待てど暮らせどなかなか壊れてくれず、ついに決断。

販売店は比べてみるものだ。近所の某店と購入した某店とは5万近くの差があった。説明してくれた店員さんも親切でしかも知識がある人に当たった。
ちょっと奮発して37インチ!翌日の月曜日に届くという。

一人で買いに来たのでテレビを買ったことを家族は知らない。
届けてもらう時間指定ができるらしいので、私が仕事の休憩時間が取れる時間帯を選んだ。その時に届けてもらえば、奥さんや娘が仕事から帰ってみると居間にデーンと新しいテレビがあって驚くという寸法だ。

月曜日の朝。奥さんが「テレビ、3時半ころ届くらしいわよ」
と言う。

「え?何で知ってるの?」
「朝、確認の電話があったもの」
「なーんだ、驚かそうとおもったのに」

奥さんが馬鹿にしたように言う。
「テレビを買って驚かそうなんて、昭和30年代にやることよ!」


2007年06月27日
「うちではめったにないこと」

さっき仕事から帰ると娘と奥さんが夕食を食べ始めたところだった。
うちの家族は食事の時間もまちまちだし外食が多い。三人揃う、というのはめったにない。なので私も早速食事に参加。 うちの娘は私に口うるさい。
「その瓶詰めのシャケに一回箸を入れたらもう入れちゃダメだよ!」
「はいはい」

家で家族そろって食事なんて何日ぶりだろう。
あ〜〜食った食った。

ヨネスケが来るかと思ったけど来なかった。


2007年06月20日
「7分間の興奮」

昨日は我が「荻窪東宝」とは友好条約を結んでいるサバイバル系自主映画チーム「HIT AND RUN」の新作上映会に同席させてもらう。
タイトルは「BIG DRUM」。戦闘シーン中心の作品だ。いつもながら感心するのだが見ていて恥ずかしくならない。自主映画というのはとかく見ている方が恥ずかしくなるものなのだが、それが全く無いのがこの人たちのすごいところだと思う。
息をつく間もない7分間。今回のは特にテンポがよく退屈している暇がない。
本編7分に対して特典映像が、ん時間もあるいつもながらのサービス精神。
映画作りは楽しいよねえ!!


2007年03月27日
「植木さんForever」

夜8時過ぎ、携帯の着信音が鳴った。電話に出られない状況だった。その後メールの着信音が何度も鳴る。なんだろう?
後で見るとどれも植木さんの訃報。友人達が知らせてくれたのだった。
そうだったのかあ。

用事が済み、腹がへったのでラーメン屋で食事。
ラーメンをすすりながらメールで知らせてくれた方達に返事を書く。
いなくなってほしくなかった人だったなあ。
メールを打っていると植木さんの出ていた映画のシーンや唄う様子が目に浮かんでくる。
芸能人が死んで初めて涙が出てきた。


2006年12月06日
「もどき」

本城直季という写真家がいる。
実際の街や建物をまるでミニチュアのように撮る写真家だ。
彼の作品を初めて見たのは、今年の夏ころに「small planet」という写真集を本屋でみつけた時だった。パラパラとページをめくると、そこには驚くべき写真がたくさん載っていた。
「えっ!何だこれ?ほんもの?それともミニチュア?」
どうやらどの写真も実景のようだが、ページをめくる度に「えっ?」「うわあ!」と頭の中で叫んでしまう。「あはは、これどう見てもミニチュアだよ!」

どうしてミニチュアにように見えるのだろう。
ミニチュアを写真に撮る時、カメラをミニチュアに近付けるわけだが、そうするとレンズの特性で被写界深度が浅くなるらしく、ピントの合う範囲が狭くなるという。その特徴を実景の写真にも表現すればまるでミニチュアのような写真が出来るという原理のようだが、被写体選びやアングルが重要なのだろう。

私は模型好きで、子供のころからプラモデルを作るのが趣味だった。それを写真に撮るのがまた楽しい。自動車や街並みの模型をいかに本物らしく撮るかに腐心していたものだ。
本城氏の写真を見て「おお、このやりかたならわざわざ模型など作らなくても模型みたいな写真が撮れるじゃないか!」
本末転倒というやつだ。

本城氏は「アオリ」といってレンズとフィルム面を傾けることによって擬似的に被写界深度を浅くしているようだ。これはフォトショップで、なんとかそれらしくならないだろうか、と挑戦させてもらったのがこれ。
うーん、まだまだだだけど、しかしこれはけっこうおもしろい。


2006年06月19日
「出演作を見る」

5月15日の日記に書いた、友人が製作した自主映画が完成したので見せてもらう。
監督のK藤君、それにお仲間のS田さんも交えて鑑賞。
なかなかに素晴らしい。参加者の10人が迷彩の戦闘服をまとい撃ち合いを繰り広げる。
突如として私の出演場面が現れる。はずかしい・・・。
屋外の戦闘シーンの撮影地は千葉県とのことだが、国籍不明の作品を見ていると日本には見えなくなってくるから不思議だ。




2006年06月4日
「ザ・ヒットパレード」

先月フジテレビで放送されたドラマ「ザ・ヒットパレード ‾芸能界を変えた男・渡辺晋物語‾」を見る。
以前から楽しみにしていたのだが録画するのを忘れてしまい、諦めていたところ友人のS口君が録画してあったので見ることができた。
やはり友人のK穴さんから「このドラマを楽しむコツは、あまり期待しないこと」と言われていたせいもあってか、私はけっこう楽しめた。もともと、こういう近年実際にあった話のドラマ化は好きな方なのだ。
ドラマ的な脚色があるにせよ、芸能界の一時代を築いた渡辺晋とはどんな人物だったのか、渡辺プロをとりまく状況はどんなものだったのかの一部は知ることができた気がする。

「ザ・ヒットパレード」第1回目放送のシーン、椙山浩一(すぎやまこういち)プロデューサーのカウントで生放送が始まる。あのテーマ音楽とよく再現された白黒画面。思わず感動。
キャスティングに異論はあるのだろうが、これはしょうがない。頑張ってるなあと思う。植木等のスーツなどは「ニッポン無責任野郎」の時のをよく再現したりしていた。普段、植木は着てなかったのだろうが。しかし陣内孝則 は植木等というよりスマイリー小原なのでは・・いやいや、しょうがないのだ。誰にだって代わりになる人などいないのだ。

東宝映画の中でも主にクレージーものの製作者として「渡辺晋」の名前はよく目にする。今までは「ナベプロの社長」というだけの認識しかなかったが、これからは「あの渡辺晋さん」に変わるのだろう。


2006年05月15日
「出演」

K藤君はサバゲ(サバイバルゲーム・BB弾というプラスチックの弾を発射する銃を使い、主に屋外で撃ち合う戦争ゲーム)ファンだ。
最初は使い捨てカメラで記念に写真を撮っていただけだったらしいが、だんだん撮影に重点が移ってきて、今ではビデオカメラで撮影し、それをストーリーのある自主映画として制作するまでになってきた。前回制作した作品を見せてもらったことがあるが、凝った編集や音楽の使い方がすごくかっこいい。そして真剣そのもので演技し、楽しんでいる彼等をとてもうらやましいと思った。

この前のゴールデンウィークにも撮影に行ったらしく、それを素材に新しい作品を作るそうだ。その作品に私も出演させてもらえるらしい。

今日は私の出演部分の撮影だ。私は戦闘に加わるわけではなく、私の家での撮影だ。役どころは「ひねた、しかし敏腕の秘密諜報部員」だそうだ。難しいよお〜。けっこうセリフが多い。監督のK藤君、それとサバゲ仲間のG嶋君が集まって撮影開始。
長いセリフはもちろんカンペ。それでもつっかえる。全然ダメな演技なのに、割とすんなりOKを出してくれた。

撮影後に軽く一杯。飲み屋にお目当ての子はいなかったのだけれど(笑)サバゲと映画話に花が咲く。
秋の完成を楽しみにしてますぜ。


2006年04月15日
「Still Crazy For You」★★★★★

クレイジーキャッツ結成50周年記念のCD「Still Crazy For You」が届く。
松任谷由実作詞&作曲による、谷啓&YUMINGのデュエットソングだ。ジャケットのイメージどおりのロマンチックな曲だ。素晴らしい!素晴らしすぎる!
ユーミンが唄う。谷啓が唄う。曲間に植木等のセリフ。桜井センリがピアノを弾く。ベースを弾くのは犬塚弘。今は亡きハナ肇のドラム、安田伸のサックス、石橋エータローのピアノはライブ音源からのサンプリングで参加だ。
通常盤はCDのみだが、限定盤にはCDのほかにプロモーシュンビデオと収録風景のDVDが10インチサイズのジャケットに入っている。両方買ってしまった。
収録風景は必見だ。涙が出る。すごいよ、クレージーは偉大だよ、と誰もが思うだろう。犬塚弘の顔が見える。桜井センリの顔も見える。植木さんが笑っている。歳をとって恋の歌を唄う谷啓はめちゃめちゃかっこいい。
ぜひとも限定盤を手に入れてほしいです。一生大切にしたい1枚になるはずです。  
 


2006年02月19日
「表参道ヒルズに行く」

原宿に「表参道ヒルズ」というのができた。それが出来る以前は「青山同潤会アパート」という、鉄筋アパートの棟が連なっていた場所だ。青山同潤会アパートは昭和2年に竣工したというだけあり、とても懐かしいたたずまいを見せていて、近代的な建物が建ち並ぶ現代の表参道の中では、異質な魅力があった場所だ。しかし老朽化が進み、惜しまれつつ取り壊しになり「表参道ヒルズ」という商業ビルに生まれ変わった。

オープン間もない新名所を早速見に行く。日曜日とあってもの凄い人出。すでに原宿駅からぞろぞろと人の波。中のレストラン街で昼食を、と考えていたが待ち時間がすごそうなのであきらめる。
外に出て建物の外観を見る。横に長い建物の右端、懐かしいものが見えた。ほんの一画だが取り壊す前の「青山同潤会アパート」が再現されているのだ。そこだけ取り壊しを忘れてしまったかのように。
「やるじゃないか!森ビル!」と思った。
 


2005年12月28日
「整形外科にいる宇宙怪獣」

 首が痛くて、近所の整形外科に通っている。牽引といって首を引っ張ってもらうのだ。患者さんは私も含めて(笑)お年寄りが多い。
 ま、そんなことはどうでもいいのだが、その整形外科の待合室に気になるものが置いてある。小さな折り紙をたくさん組み合わせて、ひとつの形にしたものだ。そういうので器用に鶴だとかを作ったり、花の形にしたり、きれいな花ビン敷きにしたりしたのはよく見る。しかしその整形外科にあるのは鶴でも、花でも、きれいな花ビン敷きでもない。どう見てもキングギドラなのだ。多分、患者さんとかが作ってきたものを飾ってあるのだろうが、なぜキングギドラ・・・。私はものすごく感動した。

 


2005年09月05日
「祝・カーネギーホールご出演」

 ニューヨークに住んでいる友達から加山雄三さんのカーネギーホールでのコンサートのチラシが送られてきた。
 


2005年09月05日
「ありがとうございました」

 自作「ウルトラQ」が完成してから5ヶ月が過ぎた。図々しくも公開させてもらっているのだが、ごらんになられた方はどんな印象を持たれたのだろう、は正直とても気になるところだ。検索サイトで「ウルトラQ 荻窪東宝」などと入れて検索してみる。私たちの「ウルトラQ」について、いくつかのご感想をみつけることができた。 拙い作品なので「ウルトラQ」ファンの方のお叱りを受けるのではと覚悟していたのだが、とても暖かい感想をいただいているところもあり、とても嬉しかった。荻窪東宝の掲示板にも多くの励ましをいただいている。本当にどうもありがとうございました。


2005年03月23日
「JA3137」

 自主製作で勝手に「ウルトラQ」を作らせてもらっているのだが、その完成も近づいた最近、とても興味深い、不思議な偶然をお知らせいただいた。現在はサンフランシスコにお住いの宮崎さんという女性の方からで、宮崎さんについては、この「支配人日記・4」の中の2002年5月7日「自主映画フロム・サンフランシスコ」で紹介させていただいているので、併せてご覧頂きたい。
 宮崎さんのお父様は飛行機が大好きな方で、航空写真家として活躍されていたそうだ。宮崎さんは若い頃のお父様がセスナの前に立っている写真をとても気に入り、部屋に飾っておいたのだが、ある日「ウルトラQ」を見ていたらそれに登場するセスナと、飾ってある写真のセスナが似ていることを発見、よく見てみるとなんと同じシリアルナンバー(固有の機体番号)だったので、驚いてお父様に尋ねてみると、そのセスナは当時、調布の飛行場にあった「三ツ矢航空」(だから尾翼にサイダーのようなマークが入っている)というチャーター機の会社のセスナで、宮崎さんのお父様もよく利用していたのだそうだ。
 宮崎さんの写真は1964〜5年頃に撮影されたものだそうだ。ウルトラQの放送は1966年なので、写真の1〜2年後に万城目役の佐原健二さんや一平役の西条康彦さん、由利子役の桜井浩子さんらがこの同じセスナに搭乗することになる。
 この不思議な偶然に私もなんだか興奮してしまった。宮崎さんのお許しをいただいたので写真を掲載させていただきました。  


1964〜5年に調布飛行場で撮影されたセスナ機と宮崎さんのお父様。 「ウルトラQ」に登場するセスナ機
(第21話「宇宙指令M774」より )
機首の「三ツ矢航空」とペイントされている部分の上に万城目がパイロットをつとめる「星川航空」の文字が貼ってある。
ほとんど同じ場所で撮影したようで、背景に同じ格納庫が見える。

2005年02月14日
「チョコをもらったぞ!」

 今日はバレンタインデー。今年私がもらった数えきれないほどのチョコの中で、荻窪東宝のお客様にぜひお見せしなければならないのはやはりこれだろう。荻窪東宝製作の「ウルトラQ」に出演の由利ちゃんこと小穴ひとみさんからいただきました。




2005年01月24日
「iPod shuffleが届く。とりあえずフリスクからシールをはがしてはってみる。(笑)」




2004年10月21日
「演技」

 先日、俳優の江原達怡さんにお会いし、お話をうかがう機会があった。
 江原さんはしばらく俳優業から離れてらしたが、最近カムバック?し、「メッセンジャー」「踊る大走査線 レインボーブリッジを封鎖せよ!」に出演されている。セリフが無いのが出演の条件だったそうだ。

 さて、私が江原さんにお会いしたとき、江原さんはある作品のちょっとしたセリフを読み上げる場面があった。私はそのセリフを前もって知っていたのだが、江原さんが少しアレンジを加えたこともあって、一瞬、それがセリフを読んだのではなくて、その場にいる人に話しかけているのだと勘違いしてしまった。ものすごく自然に聞こえたのだ。読んでいる、という感じが全くなく、まさに話しているのだった。今のはセリフを読んだんだ、と気がついて私は「今のが演技っていうやつか!」と驚いた。今更ながらプロだと思った。プロと素人の隔たりはものすごく大きいと思った。
 江原さんは「僕はね、読ませると結構うまいんだよ。子役の頃からで長いしね。」とおっしゃる。
 正直なことを言うと、私は今まで江原達怡という俳優さんの演技が、うまいとか、うまくないとか、考えたことがなかった。すんなり映画に入りこめた。力の入った演技派という感じがしなくて「地(じ)でやってるんだな」というふうに感じていたのだと思う。
 ところがこの「地でやってる」と見る人に思わせる演技がいちばんすごいのだろうな、と思う。


2004年10月09日
「ついにそういう時代か!」

 友人の友人から聞いた話だ。
 私も間接的に知っている人なのだが、その人は喫茶店を経営していて、最近こんなことがあったそうだ。
 その店に置いてある公衆電話はまだダイヤル式なのだが、若い客が電話の前でなにやら戸惑っている様子だったらしい。指をダイヤルの穴の中に突っ込んだり抜いたりしていたらしいのだが、ついに店の人に「あのー、この電話、どうやってかけるんですか?」と聞いたというのだ。ダイヤルを廻すというのが分からなかったらしい。喫茶店の客というから子供ではないはずだ。
 私は「あり得ない!」と思ったが、若い人に聞くと「いや、そうかもしれませんよ」と言う。ちょっと古い映画やドラマを見ればダイヤル式の電話なんかそこらじゅうに出てくるはずなのだが、見ない人なら知らないのも無理はないのか。アナログレコードもそうだろうし、カセットテープもそろそろそういう運命だろう。
ついにそういう時代に突入したか!


2004年05月16日
「さらにボツ2題(通算4連発)」

 去年の9月22日付の日記でテレビに紹介されかかったが結局紹介されなかった話を二つ書いた。実はその後テレビに関する話がもう二つ来たのだ。

 一つは関西テレビ制作のバラエティ番組で、お笑いタレントのAさんをドッキリにはめるような企画らしい。その撮影をする場所に私の仕事場の店を使わせてもらえないだろうか、というお話だった。店がテレビに出れば宣伝にもなるだろうし面白そうなので二つ返事で引き受けた。仕事場のみんなも楽しみにしていた。
 いよいよ撮影の何日か前になって局の人から電話があった。「撮影の件ですが違う店でやることになりましたので。」

 次は天下のNHKだ。BS放送で「熱中時間・忙中”趣味”あり」という番組が始まったらしい。薬丸裕英さんの司会でいろいろな趣味をもった芸能人や一般の人の作品などを紹介する番組らしい。その中で模型のジオラマを扱う回があり私に電話で問い合わせが来た。電話やメールで何回か打ち合わせをし、作品をどうやって渋谷のNHKまで持っていこうかなあ、どんな服装で行こうかなあ、などと心配していたら局の人から電話があった。「すみません、今回は紹介できないことになりました。」

 ボツの4連発である。これは各局が相談して私をからかっているにちがいない。TBS、日本テレビ、関西テレビ(フジ系列)、NHKと来たのでこうなったら残るテレビ朝日、テレビ東京からも話が来てやっぱりボツになるボツのパーフェクトでも狙うかあ。


2004年03月03日
「ゴジラが終わる」

 東宝から今年12月公開になる「ゴジラ FINAL WARS」を最後にゴジラシリーズに終止符がうたれることが発表された。
 知り合いの興行関係者の話によるとハム太郎が終わるとさっさと帰ってしまう子供たちもいるらしい。そこまでゴジラは人気がなかったのか。私自身85年ゴジラを最後にそれ以降は見てないので言える立場でないのだが日本の怪獣は、特撮は、どこへ行ってしまうのか。
 ゴジラはヒーローとして50年悩んだ。怪獣はやっつけられるために生まれてくる。それでもヒーローだ。時には愛されようと努力した。時にはやっぱり憎々しくなってみた。50年経ったがやっつける側にヒーローは現れなかった。もうどうしていいのか分からなくなった。
 ゴジラが将来復活する可能性について富山省吾プロデューサーは「新しい表現や才能が出てきた時が、ゴジラが生まれ変わる時。少なくとも私の世代が手掛ける最後のゴジラ映画になる」と述べている。新しい才能に期待したい。



2004年02月09日
「さらにちょっと困った」

 だめだ。好きになれない。慣れの問題だろうけど。年寄りだから柔軟性がないのか。OSXのことだ。
 インターネットはつながった。メールもOKだ。荻窪東宝にファイルをアップするテストをした。たとえばこの支配人日記を更新するときはshihainin5.htmlというテキストファイルを開いて更新する部分を書き足し、保存してサーバーに送る。まずそのHTMLファイルを開いてみようとする。ん?アイコンが変わっているぞ? ま、いいや、とクリックして開く。といつもなら文字とタグと呼ばれる記号がダーっと見えるはずなのだがそうではなくてブラウザで見るようにちゃんと画像とかも配置されて見える。これではファイルの編集などできない。どうやら.htmlという拡張子を自動判別してブラウザソフトで開いてくれるらしい。余っ計なことを。
 設定などでどうにかなるのだろうけどよく分からないのでOS9のテキスト編集ソフトで開き保存するがまたアイコンが変わってしまって次に開くとまたブラウザで開いてしまう。うーん、困った。この問題は後回しにしよう。
 デジカメから画像を取り込んでみる。カードリーダーを認識しない。ネットでドライバーソフトをダウンロードしようと思ったがOSX用が無い。この問題も後回しだ。
 クラシック環境でフォトショップを試す。何故か選択や筆などのツールのカーソルが見えない。勘でやるしかない。やっぱりOSX用のフォトショップを買わなきゃダメか?
 なんとか更新したHTMLファイルをサーバーに送ってみる。文字化けしてしまった。
 えーい、もういい!わかった!もう頼まん!
 書けばきりがないほかにも数々の問題になやんで、下取りに出さずに殿堂入りと称してしまいこんだ旧機種をまた引っ張り出す。3日分の日記が更新できた。
 たった数日使わなかっただけなのにものすごく懐かしく感じた。そうだよ。このOSAKAフォントのアンチエイリアスのかかってないキリッとしたやつじゃなきゃダメだよ。そう、アイコンは32x32ドットでいいの。限られた制約の中で工夫してそれらしく見せるのが技ってもんでしょう。

 機種を替えて、OSも替えて、持っている周辺機器やソフトは古くて、スムースにいかないのはあたりまえだ。OSXの印象が悪いのはその辺が原因のわがままだとは分かっているつもりなのだが、うーん、好きになれるだろうか。が正直な感想。
 マックは易しくなったのではなく優しくなった感じだ。アイコンは綺麗だし、なめらかないろいろな動きはするし。しかしその優しさが私にはうさん臭く感じてしまう。例えてみると店構えはしゃれていて、店員もネクタイとかちゃんとして言葉使いも丁寧で笑顔で人当たりはいいけど、うまいことばっかり言う、どこか信用できない不動産屋のイメージ。(笑)
 前回にはマッキントッシュファンと豪語したのにえらい変わりようだ。
 コンピュータらしさって何だ。コンピュータは機械だ。無機質なものだ。なのに感情のようなものを感じてしまうところが私にとってコンピュータの魅力だ。だから見た目は生命っぽくなくカクカクした冷たい感じのほうがむしろいい。なのにやることといったら人間らしいどころか人間にはできないものすごい能力を発揮する。そこがいいのではないだろうか。

 アップルは今後、もうOS9関連の開発はしないという。しかし逆に考えるともう完成されてしまったので今のOS9環境で変更なく一生使えるということだ。機械さえ壊れなければ。それもいいかも知れない。しかしもし何年かたってOS11だか12だかに移行を余儀なくされたらもう浦島太郎状態だろう。それも恐い。
 思いっきり悪口を言ってしまったけれども「あの時はあんなこと言ったけど、慣れてみたらもうOS9には戻れないね。アップルさん、ありがとう」と言えるのがもちろん一番いい。


2004年02月02日
「ちょっと困った」

 私はマックファンだ。ハンバーガーが好きなのではない。マッキントッシュファンなのだ。ウィンドウズには触ったこともない。私が最初にパソコンを買ったのは十年位前。もちろんマックでColor Classic・というやつだった。主にシムシティーとタワーというゲームをやるためのゲームマシーンだった。
 それからしばらくしてインターネットを始めた。親戚の知り合いが自分でサーバーを持っていてホームページを開かせてくれた。「荻窪東宝」の前身である「超娯楽研究所」というHPを開いた。他人のソースを覗き見て、見よう見まねだった。ソフトはフリーソフトとスキャナーにおまけで付いていたフォトショップの簡易版だけだった。
 それからも相変わらずゲームにはまり、アイコン作りにはまり、いろいろとくだらないもの作りにはまって今日に至るのであるが機種はマック一筋だ。不思議なことに私のまわりにはマックユーザーが多く、シェアは異様に高い。
 ウィンドウズには触ったこともないと書いたが実はちょっとだけならある。電気店でデモをしているウィンドウズ機に「どんなものなんだろう。まさか噛みつきはしないだろう」とマウスにおそるおそる手をのばしたらボタンが二つもあるではないか。私はどうしてよいかわからず、わーっとその場を逃げだした。
 それ以来ウィンドウズには触っていない。電気店などに飾ってあると息を止めて足早に通りすぎるようにしている。
 前置きが長くなったがそれほどマックファンなのである。旅行した時などを除いてマックを起動しなかった日は一日もない。

 さて先日届いたG5に変更するためのバックアップを数日かけて実行した。いままで作ったファイルを整理したり、メールを保存したりして「Mac OS9の遺産」と題した何枚かのCDに焼いた。
 いよいよG5を箱から出す。デカイ!販売店で見たときもデカイと思ったのだが家で見るとさらにデカイ。高性能なノートパソコンがあんなに小さく薄くできるのだから、なにもこんなにデカくなくても・・・と思ってしまう。しかも私の買ったG5はシリーズ中一番安いやつなので中はスカスカだ。
 起動してみる。初めて見るわけではないがまだ見慣れないOS Xのデスクトップが映し出される。さっそくインターネットにつなぐ。つながらない。いつもこうだ。なんで設定ってこんなに難しいの?しかし何度やってもダメだ。NTTに電話してみる。「プロバイダさんに光ケーブルになった変更はしましたか?」変更しなくてはいけないらしい。
 プロバイダであるso-netに電話する。so-netのサイト上で変更できるらしい。しかしインターネットにつながらないのではそれもできないではないか。仕事場のパソコンで変更手続き。自宅で試したらあっさりつながった。早い!さすがだ!まるでテレビのチャンネルを変えるようにスパスパ読み込む。いやー、素晴らしい!
 素晴らしいのも束の間、こんどは電話がつながらない。今まではISDNというやつでターミナルアダプターというのを介して電話とパソコンを使っていた。今度は光なのでターミナルアダプターを取り外してしまって、電話のコードを直接モジュラーにさしたのだが電話はうんともすんとも言わない。携帯でまたNTTに電話。「それじゃあだめですよ。アナログに戻さないと」「あ、そうなんですか。すみません何にも知らなくて」アナログの切り替え工事には3日くらいかかるらしい。ターミナルアダプターをまた引っ張り出して配線するのも面倒なので3日間電話無しで我慢することにした。
 十年もマックをいじっていてホームページまで運営していて実は何も知らないのである。情けない。
 余談だがこの時感じたのはみんな携帯をもっているのでもう家の電話はいらないのではないかということ。多分3日間それほど不便は感じないだろう。

 この日記は2月2日付けだが実は2月9日に書いている。なぜか。困ったことはまだまだ続くのだ。以下次回。


2004年01月30日
「少数派」

 新しいパソコンが届いた。マッキントッシュのG5だ。マックは三年ほど前にOSが大きく変わりOS X(オーエステン)になった。私は今までそれにはせずOS9のままだった。別にそれで大きな不便はなかったのだが、今度接続を光ケーブルにしたのを機会にその早さを充分に生かすためと、魅力的なソフトや周辺機器がOS Xでしか使えないものもあるので新しい機種、OSの導入にふみきった。それとマック雑誌がOS Xのことしか載せなくなってきたのも理由だ。読んでいても全然面白くないのだ。面白そうなフリーソフトなどを見つけてもOS X専用だったりすることが多くなってきた。
 マック自体少数派なのに、いつまでもOS9にしがみついていると、さらにその中の少数派になってしまうのも不安だった。
 私はなぜか少数派にまわってしまうことが多い気がする。二十数年前、初めて買ったビデオはベータだった。ビデオ戦争と呼ばれたVHS対ベータの戦いは面白くてしょうがなかった。勿論私はベータを応援した。どこそこのメーカーがVHS陣営についたとか、ベータも対抗して三倍モードを採用したとか手に汗にぎって一喜一憂した。十数年ベータで頑張ったけれどもテープの貸し借りが不便だし、ソニーもVHSを作り始めたので私も折れた。
 車はいすゞ車ファンだった。三台乗り継いだ。売れれば良いという大メーカーが作る車と違ってなんとなくイタリアっぽいセンスを貫き通したところが好きだ。しかし貫き通しすぎて売れず、乗用車から撤退してしまった。
 しかし少数派ユーザーはそれなりの楽しみもある。さっきも書いた「頑張ってほしい」と応援する楽しさだ。
 そんな私が持っている携帯電話はもちろんツーカーだ。


2003年12月14日
「柴又に行く」

 柴又の帝釈天に行く。参道は日曜日ということもあってか、観光客でたいそうな賑わいだ。もちろん「男はつらいよ」の功績が大きいのだろう。どの店もこれでもかとばかり寅さんグッズを売っている。
「男はつらいよ」シリーズで「とらや」(後に商標の関係で「くるま菓子舗」)のある場所は柴又帝釈天の参道である。架空の某所ではない。しかし劇中の参道には観光客などの姿はあまり無く、近所のおばさんが通り、郵便屋さんが通り、おまわりさんが通り、といったのどかな門前のように見える。もし帝釈天の参道の様子を忠実に再現するのなら、寅さんに出てくる帝釈天を見てこよう、とやって来た観光客でごったがえしていなければならない。その矛盾がおもしろい。


2003年12月13日
「いやー!早い早い」

 もう12月! このまえ夏だと思っていたのになあ。一年も前半は長い気がするんだけれども後半はあっという間ですねえ。何でも後半はすぐかもしれない。車のガソリンも満タンからしばらくははなかなか減らないけれども針が真ん中くらいになるとすぐ無くなってしまう。携帯のバッテリーもそう。バッテリーの線が1本消えるとあとはすぐ無くなる。気のせいだろうか。人生もそう。後半はもう、ビュンビュン時間が進んで行く。気のせいかなあ。いや、これは気のせいではなくて、何かあるんじゃないかと私はにらんでいる。


2003年09月22日
「ボツ2題」

 今年になって「荻窪東宝」で紹介させてもらっている「モノ」にテレビから出演依頼が2度も来た。

 一番目はやや以前の話なのだが3月ころ、TBSの「USO!?JAPAN」という番組から連絡をいただいた。この番組は町の不思議な情報などをジャニーズ系のタレント、嵐やTOKIOの国分太一らが調査する、といった内容らしい。
 番組からの依頼は「荻窪東宝」の「無責任パッケージ大作戦」にあるようなインチキおもちゃが存在するらしい、という噂を調査?することにしたので「無責任パッケージ大作戦」ですでに紹介している植木等や高木ブーを使用したい、ということでお預けした。
 そのほか、番組中に「実は番組のために特別に作ってもらったんですよ」とTOKIOの国分太一さんをフィギュアにしてパッケージに入れたおもちゃも紹介したいので、作ってもらえませんか、ということなので喜んで作らせてもらった。パッケージは例によってスターウォーズ調、嵐とか言われてもオジサンはよく分からないがTOKIOならかろうじて知っている。適当にそれらしく写真を配置してパッケージはできあがった。まあまあである。問題はフィギュアだ。全然似てない。「どこが国分だよ」といったシロモノだ。ファンが見たら怒るにちがいない。
 さて、4月12日(土)午後8時、いよいよ放送。気がついてみればTBS系の土曜夜8時といえば、かつては「8時だよ!全員集合」をやっていて日本中を沸かせていた時間ではないか。ゴールデンタイム中のゴールデンタイムだ。
 「いつ出るだろう」目はテレビに釘づけ。「あ、出た出た。アハハ」植木と高木が一瞬だが大写しになった。しかし肝心の特注の国分フィギュアが出ない。そのコーナーは終わってしまって違うコーナーに移った。「そうか、きっと最後に出るんだな。なかなか効果的な演出じゃないの」と無理矢理期待していたらやっぱり出なかった。
 後日、担当の方から「時間の関係で・・・」と説明をいただいたが、「似てなかったからなあ」と思っている。しかし面白い経験をさせていただきありがとうございました。

 次に若大将アクションフィギュアにテレビ出演の話が来た。こんどは日本テレビである。
 「行列のできる法律相談所」というのがあるらしい。私はこの番組は断片的にしか見たことがないのだが人気番組のようだ。その番組のスタッフの方のお話によると、秋の2時間スペシャルで加山さんがゲストとして出演し、若大将シリーズのころのポスターなども紹介され、その時「ファンの方でこんなフィギュアを作った人もいるんですよ」という具合に登場する予定なのだそうだ。もちろん私は二つ返事でお引き受けし、そのうえ、こんなのもありますよ、とばかりに頼まれもしないのにエレキの若大将フィギュアも急遽作り上げてスタッフの方にお渡しした。
 9月7日、その番組の収録見学に招待いただき、友人とふたりででかける。麹町の日本テレビには2時集合。 この番組はスタジオ内後方に視聴者の観覧席があり、笑い声や「え〜っ!」とかいう声が収録される形式のものだ。観客は7〜80人くらいだろうか。私達もいっしょに観客席に座る。まず局の方やマエセツと呼ばれるお笑いの人から声の出し方などの説明を受ける。面白いところでは笑い、疑問だったら「え〜っ!」、納得だったら「ふーん」という具合だ。気がついたのだが、来ている観客は今日出演する芸能人のファン、とは限らないようだ。むしろ特定の芸能人のファンは少ないのかもしれない。番組のファン、収録観覧が趣味のおばちゃんやおねえさんが多いと感じた。だから「え〜っ!」などはとても手慣れている。
 いよいよ収録開始。司会の島田紳助さんとアナウンサー、4人の弁護士、レギュラーの芸能人らがスタジオに入る。ADやカメラの人がキビキビと動く。
 加山雄三さんは最初のゲストでしょっぱなから「ファンの人がこんなの作ってるんですよ」と島田紳助さんがフィギュア(ハワイの若大将タイプ)を取り出す。大きなモニターにも写真が写しだされる。観客は一応「え〜っ!」とか言ってくれる。加山さんがフィギュアを手にとり「ふーん、このへんが似てるよな、毛深いところがさ」などと言ってくれる。 やったー!フィギュアが本物に会えた!
 この番組は法律云々というより島田紳助さんとレギュラー、ゲストとのトークを楽しむ番組だ。法律に関連する再現ビデオや弁護士さんたちのコメントはそのまま放送されるのだろう。しかし紳助さんのトークはやたら長い。一人のゲストに対して1時間くらいはしゃべる。笑えるトークというのは喋る人自身のらなければならないし、話題が盛り上がらなければならない。1時間喋ったなかで使うのはすごく面白かった部分、数分なのだろう。
 ゲストの一人に「笑点」でおなじみの林家喜久蔵さんがいた。他の和田アキ子さんや優香さんたちと比べれば地味なゲストだったが東京生まれのオジサンにはパワフルな笑いも面白いけど、こういうのがいいな、と思った。
 2時間番組なのだから夕方くらいには終わるのかと思っていたら終わったのは10時半。7時間以上も笑っているとさすがに疲れた。
 これもとても面白い体験でした。ありがとうございます。
 この時の様子は9月28日(日)に放送になる。
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後日談。
今日(9月22日)担当の方から電話をいただく。
「実は、時間の関係でフィギュアの部分、放送されなくなりそうなんですよ。」



2003年04月02日
「思うつぼ・2」

 もうボトルキャップが付いているからといってコーラを買い込んだり、おもちゃが付いているからといってキャラメルを大量に買い込むことはやめようと決心していた。いままで集めたそれらの景品は無造作にダンボール箱につめられいつか捨てられるのを待つのみになっている。
 しかし今売られている長嶋茂雄フィギュアのボトルキャップと、ペプシコーラのアディダスのスニーカーボトルキャップは素晴らしい!(笑)またせっせとジュースをがぶ飲みするはめになってしまったのだ。


2003年03月30日
「花見」

 夕方から井の頭公園でお花見。何年か前、車椅子の母を連れて家族で一度だけ近所の公園に弁当を持って花見にでかけたことがあるのを除けば、飲んでさわいでの花見は実は初体験。奥さんの友達が中心の10名プラス娘の友達5名が参加。人出は多いが桜はまだ3分咲きだ。しかし桜を見ている人などほとんどいない。


2003年01月30日
「ノーベル賞受賞者が言う重み」

 夜、テレビを見ていたらNHKにノーベル賞を受賞された小柴昌俊東大名誉教授が出演されていた。NHKの海外放送用に製作されたインタビュー番組なので小柴さんは英語で話されている(字幕つき)。途中から見はじめて10分くらいで番組は終わってしまったのだけれども、小柴さんは「私はまだやりたいことのタマゴをたくさん持っている。私は何か自分のやりたいことを始めるのに、遅すぎるということはないと思っている。」というお話にはずいぶん勇気づけられた。小柴さんは現在76才だ。杖の上に両手を乗せ、さらにその上ににこやかなお顔を乗せられて流暢な英語でそう語られる小柴さんはめちゃくちゃカッコよかった。


2003年01月11日
「今年もよろしくお願いいたします。」

 「コンバットマガジン」という銃器やミリタリー関係の雑誌があって、友人から聞いた話だがその2月号の編集後記に荻窪東宝のことを書いていただいているらしい。たまーにパソコン雑誌などで紹介していただくことはあるがミリタリー関係というのは初めてだ。自主製作映画にモデルガンがいくつも出てきたからかもしれない。ありがとうございます。
 昨日「生きてる」の高野氏にお寄りいただいた。毎月、荻窪で美術関係の集まりがあるそうでその度に寄っていただける。いつも面白いお話がうかがえるので楽しみにしているのだ。
 今日は10年位前に私の店でアルバイトをしていた女性が久しぶりに訪ねてくれた。今は結婚してニューヨークに住んでいるとのことだ。ヤンキースに移籍しニューヨークに渡った松井選手と入れ違いに来日したわけだ。うれしいことだ。(松井選手と入れ違いがうれしいのではなくてウチを訪ねてくれたことが)
 夜は商売関係の新年会。出席者全員が今年の抱負などのあいさつさせられるのには参る。こういうのは苦手だ。
 まあそんなこんなで正月も終わり平常に戻りつつある今日このごろだ。毎年、新年になると一応はいままでの反省も含めていろいろ目標をたてたりするが、今年はそれを忘れて年が明けてしまった。元ジャイアンツの中畑氏は反省ということをしたことがないという。過去は振り返らず前進あるのみ。それもいいのかもしれない。私としては、さあ今年もいい歳をしてくだらないことをやるぞー。まあこんなところだろうか。しょうがねえおやじだなあ。今年もよろしくお願いいたします。


2002年12月14日
「激突・歌う若大将」

 今日は千葉県は本八幡のカラオケルームで大忘年カラオケ大会。集まったのは東京楽天地のK氏、船橋ららぽーとのI君、船堀シネパルのM君という東宝系興行会社の3名と私の合計4人。完全なオジサン2名ともうすぐオジサン2名の男ばかり4人だ。それがやれ加山雄三だ、クレージーだと歌い狂う。異常な光景だ。2時間半、14曲を歌った。2時間半で14曲というと曲数が少ないと思われるかもしれない。それは曲間のトークが長いのである。誰かが何かを歌うとそれから連想した映画などの話がああでもない、こうでもないと延々でるのでなかなか次の曲に進まないのだ。しかし楽天地のK氏の「ニセダイショウ」という異名に恥じぬ(?)若大将ぶりには驚いた。加山さんのモノマネって似てる人あまりいないと思うがK氏は声がそっくり!
 私はたまにつきあいで「カラオケスナック」なら行くけど、純粋にカラオケをやるカラオケルームは5年ぶりくらいだ。しかしいいですねえ、こういうのは。今のマイクってワイアレスなんだ、知らなかった。いやあ、楽しかったなあ。


2002年12月12日
「続・インチキ大魔王を拝命」

 さて、すぐ前に書いたMac Fanの次の号が出た。予想通り(予想通りって前号にそう書いてあったからあたりまえなのだが)また私達のガレージムービーのことを載せていただいている。できれば立ち読みでなく買っていただきたい。180ページに載ってます。
 この作品で採用した全米で大流行のオートマチックメニュー方式についてもふれられている。オートマチックメニュー方式とはDVDにおける、やれ字幕メニューだ、やれ特典映像だ、というあの選択の面倒さを軽減するために開発されたもので、ただプレイボタンを押すだけで自動的に次々に再生されるものだ。たいした発明である。犬蔵氏も「自分は何もしていないのにメニューの「本編再生」が勝手に選択、クリックされ、頼んでないのに再生がスタートした」と驚愕されている。(賢明なる諸君はおわかりだと思うが、ただ、そういう手順を追ったムービーなのだ)
 さて実は犬蔵氏こそスーパーグレートインチキ大魔王だということを証明するために、ほんの一例として以下のことを紹介したい。犬蔵氏の作品で荻窪東宝でも紹介させていただいている「ゴジラ対若大将」のポスターだが、実はアレの予告編が存在する。氏の個人的な楽しみで作られたものだが、ゴジラが現れ高圧線が破壊されると、若大将のパーティー会場が停電するなど、そういった本編からの映像を巧みに編集し、さらに伊福部昭、弾耕作音楽を駆使しての抱腹絶倒予告編である。これには私、インチキ大魔王もかなわない。(ところで気がついたけど犬蔵氏が私を称して「インチキ大魔王」って、全然ほめられてないですね)



2002年11月30日
「インチキ大魔王を拝命」

 ネットを通じて懇意にしていただいている中村犬蔵氏にMac Fan誌上で荻窪東宝製作のガレージムービー第一作目の「サンフランシスコの若大将」に続き最新作「暗黒街秘密警察・支離滅裂」もとりあげていただいた。ありがたいことである。発売中の12月15日号の188ページなのでぜひごらんいただきたい。(しかも次号にも続くそうである。)
 その中で中村氏は「ワタシ自身、一部方面では「中村捏造」を名乗るほどにパクリ、インチキ王を自負しているが俺がインチキ王ならこの人はインチキ大魔王」と評されている。誠にもって光栄の至りである。(いやいや、実は中村氏こそ私など及びもつかないスーパーグレートインチキ大魔王なのだが)
 これからもパクリ、インチキこそ私の生きる道と信じ精進していく覚悟ですので皆さん、よろしく。


2002年11月28日
「三十数年来の恋人を手に入れる?」

 1964年(私が高1)くらいからずーっと恋い焦がれていて、しかし手が出せない存在があった。モズライトというエレキギターだ。ベンチャーズや加山雄三が使用しているやつでギターのロールスロイスと呼ばれている。名器なのだ。しかしベンチャーズ、加山雄三(ランチャーズ)以外には寺内タケシ(ブルージーンズ)が使っているくらいで、他に使っている人を見たことがないという不思議なギターだ。
 モズライトが載っている本を何冊も買ったり、写真を参考にミニチュアモズライトを作ったり、俺が買わないで誰が買うんだ、というくらい惚れていて、そこまで好きなのに今まで何故買わなかったのだろう。それは値段が高いからだ(ガクン)。現在作られているので数十万、60年代当時のビンテージものだと百万を越えるのもある。だから「いいなあ」とは思っても「買おう」と思ったことはなかった。
 ところが待てよ、国産のモズライト(ライセンスを取得した日本メーカー製)という手もあるぞ、と思いつく。これだと十数万で買える。しかもその中古で格安の出物がありとびついてしまった。65年モデルのレプリカで色は若大将と同じパールホワイト! いやーかっこいい! 何十年も写真やビデオを穴のあくほど見つめた形が目の前にある。ものすごくときめくものがある。ボディーのこのカーブ、誇らしげに付いているモズライトのロゴ! さあ弾きまくるぞお! いや待てよ、私はギターはろくに弾けなかったのだ。

 実は同じ日、自主映画をいっしょに作ったM君もモズライトを買っている。こちらは同じく国産なのだがメーカーの違うモズライトだ。(どうなっているのだ?)今、二人でデケデケデケデケとやって遊んでいる。レパートリーである「ブラックサンドビーチ」と「ウォークドントラン」の2曲をつっかえつっかえ弾いている。バンド名は「石山新次郎とヤングビーツ」。しかし石山新次郎なんて奴はもちろんメンバーにはいない。「頭おかしいんじゃないの?」と奥さんは言う。


2002年10月20日
「TOKYO二人展」

 昨日の「砧同友会」の興奮もさめない翌日の今日、小穴ひとみさんと、師匠である江原達怡さんが青山で「TOKYO二人展」というのを開かれているので友人のS君とおじゃまさせていただいた。運よく江原さんも小穴さんもギャラリーにいらして、手みやげも持たず、絵を買うわけでもない私達を本当に快く歓迎してくださった。ありがとうございました。
 江原さん、小穴さんそれぞれ10数点ほどの作品がならんでいる。江原さんは青と白が基調のすがすがしい山の絵。小穴さんは小穴タッチの心情をよく表した絵だ。とてもお二人らしいと私は思った。S君と二人、感動して眺め入っていると盛況だったギャラリーも一段落してきて、昨日の砧の会の話などでもりあがった。
 そのとき私達は江原さんからいろいろ面白い話をお聞かせいただいたのだが、その中からひとつ紹介したい。森繁さんが撮影の合間に「君たち山の中でウサギを捕まえる時、どうやるか知ってるかい」ときいたそうだ。江原さんはウサギのつかまえ方など知らないから「いえ、知りません」というと森繁さんは「いいかい、こうやるんだよ。まず大きい声で

「ウサギ出てこーい」と言うんだ。次にもう少し小さい声で
「ウサギ出てこーい」次にまたもう少し小さい声で
「ウサギ出てこーい」
「ウサギ出てこーい」
「ウサギ出てこーい」
「ウサギ出てこーい」

とだんだん声を小さくすると、ウサギは人間が遠くへ行ってしまったと思って顔を出すからそこをすかさず捕まえるんだ」と教えてくれたそうだ。まったく森繁さん一流のギャグだ。



お二人とは江原氏と小穴さん 小穴さんのお母様やS君と昨日の写真を見る

2002年10月19日
「聖地へ」

 砧(きぬた)の東宝撮影所では俳優さんや監督、スタッフさんが集まる「砧同友会」という会が定期的に行われているらしい。今回も江原達怡さんと小穴ひとみさんのご厚意により出席させていただいた。なんと「生きてる」の高野さんも招待されていて、いっしょに出かけることができた。高野さんは「生きてる」でも紹介させていただいている胸像の展示、小穴さんも似顔絵の展示を依頼されている。私は別に役に立たないのだが招待をいただいて全く恐縮である。
 いよいよ砧の撮影所に足を踏み入れた私と高野さんは、感動を味わう間もなく早速展示のお手伝い。 お名前を失念してしまったのだけれど、用心棒のときに黒沢組についたこともあるという美術さんの指導のもと、まず小穴さんの絵をパネルに配置した。さすが美術さんだけあって見た目の水平、垂直、配置のバランスなどにはきびしく「もう3ミリ上げて」「もうちょい下(しも・左のこと)に」などと5メートルくらい離れたところから指示がでる。私と高野さんとがそのとおりに配置するのだが、考えてみればこれはすごいことだ。なにしろ砧の撮影所で当時のスタッフさんといっしょに仕事(?)をしたのだから。この歳になってなんと貴重な経験をしたことだろう。
 いつもながら小穴さんの似顔絵はすばらしく、「映画を見てなくちゃあ描けない絵だよなあ」と出席者の方々はしきりに感心する。次に高野さんの胸像を展示。黒沢監督、志村喬、加山雄三の3体だ。これまたいろいろな方が集まってきて「ほー!」と感心する。「この加山ちゃんの後頭部の形がそっくりだよね」とか「黒沢さんてほんと、こんな具合になで肩なんだよね」とか、さすが実際にお仕事をいっしょにされた方々ならではの感想である。
 今回はたくさんの美術であるとか照明であるとか録音であるとかのスタッフさんも出席されていた。そういう方々の当時をなつかしむ会話に耳を傾けていると、この方々(失礼ながら当然もうかなりお歳をめしている)のノウハウというものはものすごいものなんだろうな、と感動する。
 俳優さんも多くの方が出席されていたのだが、この二人の方について書いてみたい。まずひし美ゆり子さん(東宝時代の名前は菱見百合子さん)。ひし美さんはウルトラセブンのアンヌ隊員として有名なのだが、前回の俳優の集いの時は私と席が近く「私も荻窪東宝の俳優名鑑に載ってるの?」と聞かれて「あ、いえ、ひし美さんはあの名鑑の方々よりもう少し若い世代ですので載ってないんです」と言い訳したら「私も東宝映画に出てるのよ」とおっしゃられて「はい、載せさせていただきます」と答えたことがある。その後うっかりそのままにしておいたら今回そのことを覚えてらして「まだ載ってないじゃない」と言われてしまった。ひえーっ!チェックしてくれていたんだ!すみません、載せました。
 もう一人はバイプレーヤーの宇野晃司さん(俳優名鑑参照。たとえば「三大怪獣地球最大の決戦」で浮浪者のような若林映子さんがホテルに入るシーンで若林さんを怪訝な目で見るホテルのフロント役などが印象的)。私は以前からこの方が妙に印象にのこって、いつしかファンになっていた。会場に宇野さんのお姿をみつけたので声をかけさせていただいた。「あのー宇野さん、サインお願いできますでしょうか」と失礼にも会場で配られた参加者名簿の裏表紙を差し出すと「いや、私はサインをたのまれるような役者じゃないんですよ」とおっしゃられる。「いや、私は宇野さんが画面に出られるのをいつも楽しみに拝見しているんです」と言うと「そうですか。ありがとう」と言ってサインをしてくださった。なんだかとてもうれしかったのです。

[写真はこちら]


2002年10月14日
「映画ができた」

 前にも書いた自主映画「暗黒街秘密警察・支離滅裂」が一応完成した。今日はその上映会だ。意気込んでいた頃は大々的にお客様をお呼びして、などと考えてもいたのだけれど、まあそこまでやるほどのものじゃないか、ということで出演者中心でささやかに行うことにする。といっても15人ばかりがどやどやと集まった。
 この映画は主に監督兼主役であるM君と製作者の私との共同作業である。これを作るにあたって二人で話し合ったことは「くだらない事を真剣にやろう」である。まあ、それだけは達成されたように思う。他人が見たら「それはわかるんだけど、よくやるよね・・・」という作品だ。
 なにしろ半年かかってしまった。休み休みの半年ではなくびっしり半年だ。M監督は「いい仕事は時間をかけなければいけない」という正統タイプ。私はどちらかというと勢いでやらないと情熱がさめてしまって、いいものどころか結局何も出来ないタイプ。私は「もうこんなところでいいんじゃないの?」というとM君に「いやいや、もっとこうしたいんですよ」と尻をたたかれる。エネルギーを使いはたした私の胸の赤いランプはいつもピコピコいっていた。
 M君は千葉県に住んでいる。仕事場は東京の江戸川区だけれども荻窪とは東京23区の東の端と西の端で電車で1時間以上かかる。それなのに何十回来てくれただろう。よく通ってくれました。メールでの打ち合わせはきっと何百回になるのではないかと思う。いやあ、大変だったよね。その大変が今考えると楽しいんだけどね。
 この映画はやたらと発砲シーンが多い。火薬を仕込んだモデルガンを使うのだが、けっこう大きな音がする。夜の屋外での発砲ははずかしいこともあり、夜中の2時ころに撮影した。8月の暑い盛り、コロンボみたいなコートを着て帽子をかぶり(私は刑事役だ)汗びっしょりになって三脚をかかえピストルをにぎり監督と二人、夜の街をさまよい歩く。夜中になってもワイシャツはおろかネクタイまで汗がしみてびっしょりになるくらい暑い。飲み屋のおばさんに「探偵さんですか?」と聞かれたこともあった。いくら探偵だって真夏にコートは着ないっつーの。余計めだつじゃないですか。「このへんなら発砲してもそんなに迷惑かからないよね」というあたりでカメラを据え付け数発発砲する。それでも音はけっこう夜の街に響くのですぐに三脚をかかえて走って逃げる。50過ぎてやることじゃない。
 しかし50過ぎてこんなに夢中になれるというのもそうそうあることではない。たくさんの協力者のおかげである。幸せだよね、と思う。

[ポスター見てください]



2002年7月3日
「会社を見てくる」

 1960年代前半くらいの東宝のサラリーマン作品を見ていると、出社するシーンなどのロケでとてもよく出てくる社屋がある。「あ、またここだ。いつもここだな。どこなんだろう」とずいぶん前から気になっていた。最初はきっと東宝の本社なのだろう、と思っていた。しかし有楽町にある東宝本社ではないことがわかり、何ヶ月か前、都心に出たついでに銀座、丸の内あたりのオフィス街をあてもなく探したこともあった。大きな交差点の角にある、というくらいしか手がかりがないのだから見つかるわけがない。40年も前なのだからもう建物が存在しないのかもしれないと諦めかけていたのだが、東宝作品の研究では著名な鈴木啓之氏にお尋ねできる機会があり、それは八重洲にある大和証券ビルだとわかった。
 行ってきました。健在でした。ああ間違いなくあの会社だ。かつてここに森繁が、小林桂樹が、加東大介が、三木のり平が、植木等が、ハナ肇が、沢村いき雄が、淡路恵子が、立ったのかと思うともう涙がぼろぼろと、こぼれ落ちはしなかったが、「ここだったのかあ」という感慨は確かにあったのでした。

「ニッポン無責任時代」(1962)より 2002年の同じ場所。特徴的な入口から伸びるテント状の屋根がやや短くなり、歩道も少し狭くなっている。一階の壁面が模様ブロック状のものからショーウィンドウに変わっているが2階から上のサッシは変わっていない。向こうに見える隣のビルも色は違うが変わっていない。




現在の入口。上の写真と比べてほしい。内部の照明なども変わっていない。由緒ある建物とは知らず退社するOLさん達。(知ってたりして) 「日本一の色男」より屋上シーン。屋上シーンは別の建物かもしれないと思っていたらやはり同じビルだった。「ニッポン無責任時代」でもこの屋上は重要なシーンで使われている。 現在の屋上。屋上にある建造物にも変わりはない。(地上から撮影)

2002年6月18日
「マスコミに嗅ぎつけられたぞ!」

 前々項の「映画を作る!」で2年前に「サンフランシスコの若大将」なる作品を作ったことを書いた。主演の若大将はもちろん私だ。この作品、何を考えたか大量にダビングし各方面にみさかいなく配ったことがある。
 その勝手に送りつけた一人に 札幌に住む中村犬蔵さんという方がいる。当劇場にかざってある「ゴジラ対若大将」のポスターを製作した人だ。この方、知り合いになった当時は趣味で「デンキネコ」というキャラクターが活躍するCGによる作品をお作りになっていたのだが、みるみる活躍の場を広げられて現在、パソコン雑誌の「MacFan」で毎号エッセイも担当されている。その7月1日号に私の「サンフランシスコの若大将」がデーンと1ページ紹介していただいたのだからお付き合いは大切にしておくものだ。
 それにしても犬蔵さんの文を読むとこの作品、知らない人が読んだらものすごい大傑作かと思ってしまうように書いてある。その通りなのだが。
 そして現在秘密裏に製作中の「暗黒街秘密警察・支離滅裂」(いい歳してしょうもない・・・)のことまでチラ、と紹介されている。あれ?なんで秘密が漏れたんだろう。あそうか、日記に書いたもんなあ。よーし、こうなったら気合い入れてなきゃあかんなあ!

中村犬蔵氏HP


2002年5月7日
「自主映画フロム・サンフランシスコ」

 何年か前からサンフランシスコに住む日本人女性の方とメールのやりとりをさせてもらっている。最初メールをいただいた時はダーっとアルファベットが並んでいるので「わ!英語のメールもらっちゃたよ」と思ってよく見るとこれが日本語をローマ字で書いたもの。彼女(Mさんという)のお持ちのパソコンが英語環境なので日本文字が打てないためだとわかった。だから私もローマ字で日本語を書く、という文通がしばらく続いた。Mさんはアメリカに住む日系人社会のことなどを教えてくれ、こちらからは最近の日本の事情や映画のことなどをローマ字で書いて送った。今ではMさんも日本語対応のパソコンなので日本語でメールできるようになったのだが。
 私は3年前にサンフランシスコに旅行したことがあり(その時はまだMさんを知らなかった)ビデオカメラを持って行ったので一人で「映画」らしきものを撮ってきて日本で追加撮影をして仕上げたことがある。(前項で書いたものの一本)そのテープを無謀にも見知らぬMさんに送ったりもした。

 そのMさんが、婚約者を連れて日本に行くので会いませんか、と言ってくれた。心待ちにしていると今日連絡が入りお会いすることができた。Mさんのお話はとてもおもしろい。婚約者のK君は30代なので「君」と呼んでは失礼かもしれないが若々しく日本語のたどたどしい日系二世の好青年でラーメンとカツカレーとルパン三世と天才バカボンが好きという。
 帰り際、お土産の日本兵のGIジョーといっしょに「実は私(Mさん)も恥ずかしいものですけど自主映画作ったことがあるんですよ」と一本のビデオテープをいただいた。

 夜、そのテープを見ておどろいた。とてもすばらしいと思った。まず8ミリフィルムやビデオで撮ったシリアスなものが3本入っている。それもすばらしいのだが荻窪東宝のお客様にぜひご紹介したいのがその後に入っていた「スパイキャッチャーJ3」「ゴーゴーサニーボーイ」「エレクトリックサーフギャル」と題するミュージックビデオ風の3本だ。どれも60年代のマイナーなジャパニーズポップスに映像を付けたものだ。一見それは日本の60年代を再現したミュージックビデオなのだが、驚くべきことは、これが90年代にサンフランシスコで撮影されたということだ。出演しているのはみんなMさんの友達の在米日本人で服装もとてもよく日本の60年代を再現している。Mさんは多分70年代の終わりに生まれて80〜90年代に青春時代を過ごされた方だと思うが、60年代の雰囲気がとてもよく分かっている。サニーガールズというMさんを含む三人娘がミニスカートにブーツのコスチュームでオープンカーに乗ったり踊りまくったり、サンフランシスコ郊外の海岸を湘南に見立てたりと、黙って見せれば誰もここが外国とは思わないかもしれない。(車が右側を走っているのが変だと気がつくかもしれないが)大笑いして私はこれを見たが、作るのは大変だっただろう。サンフランシスコに住んでいて「日本の60年代映像を作りたい」というMさんの心意気には感動した。

 サンフランシスコには日本町という所があって、和菓子屋さんがあったり、日本映画のレンタルビデオがあったり(社長外遊記とかあって、K君はフランキー堺の日系二世がとてもよくできていると感心しているらしい)アマチュアによる落語の寄席なども開かれるらしい。日本の文化を大切にする気持ちは日本に住む人に負けない、というか外国に住む日本人の方のほうがその気持ちを大切にしているような気がする。




2002年4月26日
「映画を作る!」

 家庭用ビデオカメラを使い、家族や友人に出てもらってストーリーのある10分から20分程度の作品を作ったことがいままで三度ある。そしてどれも見ている方がはずかしくなるような実につまらない愚作である。というのは実は謙遜で、自分では今まで見たこともないような傑作だと思っているのだけれども、何故か誰もそうは言わないのが不思議でしょうがない。そしてそういう作品を自分では「映画」と呼んでいる。
 最初に作ったのは22年前で、二作目が12年前。最新作の三作目が2年前で、きっちり10年に一作の割合で作っているがこれは偶然だ。製作に10年かかったわけでは全然ない。しかしもしかしたら10年周期の病気だったのかもしれない。

 それが病気の周期が急に短くなったのかまた作り始めてしまった。タイトルは「暗黒街秘密警察・支離滅裂」。なんだか見る前から、どんなものかはだいたい想像がつく。これは友人のM君がシナリオを書き、私が監督ということで作るはずだった。ところが撮影を2日後にひかえても私が描かなければならない絵コンテが全然できあがらず、シナリオを書いたM君なら撮影現場で絵コンテなしでもなんとかなるだろう、という無茶苦茶な理由で急遽監督交代、私はプロデューサーに就任、という無責任ぶりを発揮する。
 さて21日は撮影初日。何と10人の社会人が顔をそろえた。こんなに大勢の人に迷惑かけていいんだろうか。朝の9時前から夜の11時過ぎまで、みんなでああでもないこうでもない、と撮影は進む。初対面同士の人もいるので適度な緊張感もあった。私は今まで全くの自己流だったが今回はM君をはじめ自主映画の経験者もいててきぱきと作業が進むが、NGはどうしても出るので何度も同じ演技をしてもらわなければならないし、みんな疲れて重苦しい空気になることもある。しかし演技など初めてという人もとてもよい味を出していて本当にすばらしいと思った。一番反省すべきことは私は監督でもないのにちょっと口を出しすぎなこと。

 ああ、みんな迷惑に思ってるだろうなあ、と心配していたら翌日、今回はじめて出演してくれたG君が遊びに来てくれた。うちの奥さんが「G君、きのうはすみませんでしたねえ。迷惑だったでしょう? 遊びなんだから何もあそこまで真剣にやらなくてもいいのにねえ」と言うから私は「いいんだよ。そういう遊びなんだから」と言ったらG君も「そうなんですよ。そういう遊びなんですよ」と言ってくれたのには救われた。

(「この支配人、加山雄三を見に行ったり、俳優会に顔を出したり、遊んでばっかりじゃないか。何やってる人なんだ?」と思われるかもしれないが、仕事もちゃんとやってます)


2002年4月20日
「おおぜいの東宝俳優を肉眼で見る」

 「東宝俳優クラブの集い」という文字通りの会があり、去年のこの会のことは前にも書いたのだが、今年は私も出席することができた。このところ私にしては妙に行動が活発である。この日記では度々紹介させてもらっている小穴ひとみさんの師匠(?)である江原達怡さんのご厚意である。ありがとうございました。
 都内某所で秘密に開かれる(そんな怪しいものではないが)この会は今回は十回目だそうで、しかも東宝創立70周年にもあたる記念すべき回になるそうだ。
 いつも私がひたっている大好きな東宝映画に出演している方々と実際に会うことができる、これは考えてみればものすごいことなのだが、ものすごすぎて実感がともなわなかったのだろうか、意外と冷静に、気を失ってひっくりかえったりもせずに楽しく過ごさせていただいた。
 司会は幹事の江原達怡さん。会長の池部良さんのあいさつ、副会長の司葉子さんのあいさつと続き、江原さんはその後、なんと「荻窪東宝」の話をマイクに向かって話されている。私は「おいおい、いいですよ。そんなこと話さないで」とあわてていると「では荻窪東宝さん、一言、ごあいさつを」とかおっしゃっている。私は「うわ!まいったなあ」と思いながらもしかたがないので壇上へ。マイクに向かって「突然のご指名で・・」とか言っていたらすぐ前に座ってらした宝田明さんが「もっと前へ」と手招きされたりして私はなにがなんだかわからないうちに気がついたらあいさつが終わったという始末。江原さん、事前に言ってくださいよ。こっちは素人なんだから。
 江原さんは「荻窪東宝というホームページには皆さんのお名前が写真入りで出てます。もう全員です」とおっしゃっている。私は「うわ!ちょっと待ってくださいよ。出てない方もいますよお」と慌ててしまう。追加しなくては。
 しかし俳優さんというのは現役を退いたとはいえ、そのへんのオヤジやオバサンとは確かに違う。もう座っているだけで絵になる、というか、うーん、たしかに違う。それに気品がある。態度が紳士的である。これは確か。気品のある東宝だからなおさらなのだろう。


(左・若林映子)(中・西条康彦・大前亘・白川由美・藤木悠)(右・伊吹徹・宝田明・中丸忠雄)(敬称略)
さらに写真はこちら


2002年4月15日
「加山雄三を肉眼で見る」

 この前の「熱血支配人」で書いたK氏のお世話で加山雄三さんのライブに行く。場所はKENNEDY HOUSEという所。ここのオーナーはワイルドワンズの加瀬邦彦さんだそうだ。
 会場はぎっしり満員。K氏は実に顔が広く、関係者やらお店の人やら、はてはファンのオバチャンたちともお知り合いのようで言葉を交わしている。彼女らはいつも加山さんの催しには顔を出しているという熱心な人たちらしい。
 さていよいよステージに加山さん登場。加山雄三を実際に見るのは初めてだ。今日は一応「加山雄三とハイパーランチャーズ」ということなので加山さんもバンドのリーダーという感じでギターを弾きまくる。ナンバーは加山ソング40%、ベンチャーズナンバー40%、カントリー20%くらいの割合だった。ベンチャーズナンバーが多いのはベンチャーズファンの私としてはうれしかった。加山さんが還暦、というのはつい最近聞いた気がするが、もう65歳だそうだ。しかしまだまだギターも歌も全然OKのバリバリである。良い歳のとり方を見た気がする。やっぱりオレの目標だな。
 司会はワイルドワンズの鳥塚しげき。ハイパーランチャーズのメンバーではないが、やはり仲間なので和気あいあいの雰囲気で進行していく。観客は20代から60代くらいまで幅広い。後方の席には加山夫人や加瀬邦彦さんの姿も見られた。
 4月の何日かは加山さんの誕生日だそうで、例のファンのオバチャンたちは手作りのプレゼントを渡したり、「恋は紅いバラ」を歌った時とかでは涙ぐんだりしている。実は私もあぶなく涙ぐみそうになったが、なんとかこらえられてよかった。50のオヤジが加山雄三聞いて泣いてたんじゃあ気持ち悪いもんなあ。


2002年4月8日
「熱血支配人」

 このところ映画興行関係の方と会ってお話をうかがう機会にめぐまれている。
 先月は東京の錦糸町を中心に映画館チェーンを展開している東宝系の興行会社TR社のK氏と、K氏もメンバーの一人である「若大将サポーターズクラブ」の方、A氏とS氏の2名とお会いできた。「若大将サポーターズクラブ」というのは熱狂的?な若大将ファンクラブで、その存在は知っていたが実際にお会いするのはもちろん初めて。お会いする前はみなさん若大将になりきってガクランを着ていたり、アメフトのかっこうをしてたりしているのかと思っていたらそんなことはなかったが、しかし皆さん、私と同じく四代目若大将(加山、大矢茂、草刈正雄に次いで。原辰徳は除く)を襲名したとしてもおかしくない、私と同じなかなかのナイスガイだ。特にK氏は不思議なことに風貌が加山雄三と似ているのには正直、びっくりした。お噂では加山モノのカラオケもなかなかの腕前だというのでぜひ拝聴したいものだ。
 そして昨日は江戸川区にある東宝上映館のI支配人とお話できる機会があった。その東宝上映館で映写技師をしている私の知り合いM君の紹介だ。I氏は私と同年輩で、同年輩となるとさすがに「あの頃はああだった、こうだった」という話はよく合う。私は映画ファンと言えるほど映画を見ていないのでなかなか話についていけないことも多いのだが、映画の話、東宝の話を聞くのは大好きで、いつも終電の時間を気にしてのあっという間の数時間になってしまう。
 お二人の支配人のお話を伺っていて共通なのは、いかにお客様によろこんでもらえるか、旧作をどういう方法で上映したら楽しんでもらえるか、の情熱である。やり甲斐のあるお仕事だと思う。


2002年4月6日
「桐野夏生」

 去年の暮れくらいから桐野夏生(きりのなつお)という女流作家に凝っている。江戸川乱歩賞を受賞したりしているので有名な作家なのだろうけど、私は知らなかった。いろいろな作家の作品を集めた短編集を読んでいてその中の桐野夏生の作品がとても面白く、こういうのをもっと読みたいと思い、氏の長編を買ってみたらもう、面白いのなんの、次々買って夢中で読んでいる。
 私はいつも寝る時、蒲団の中でマンガや本を読むのだが、読むのがすごく遅い。特にマンガではなくて字ばっかりの本(いい大人がそう言うか?普通)読んでいるときは特に遅く、読んでいるうちに書いてある内容から連想したことを考えてしまって、眼は字を追っているのだが頭は違う事を考えている、という状態にすぐなってしまう。そうなると「あ、いけね」となってまた読み返す。それと、一字一句もらさず、ちゃんと読みたい、というクセも読むのを遅くしている。言い回しに何か作者の意図したものがあるに違いない、と思うからだ。馬鹿だと思うだろうが極端な場合、「ハハハハハ」と笑っている場合、「なるほどなあ、この場合、確かに『ハハハハハハ』より『ハハハハハ』のほうがしっくりくるなあ」などと感心したりする。ちょっと病気である。
 話がそれてしまった。桐野夏生はおもしろいのである。一言でいうとハードボイルドである。かっこいいのである。氏の作品に比べると他の女性の作家の作品がすごく甘ったるく所帯じみて思える。女性の書いた作品だからなおさらなのか、登場する男性が大変に魅力的だ。登場する女性も同姓の立場から冷静に見ていてかっこいい。
 しかし残念なことに10作にも満たない桐野夏生の長編、いくら読むのが遅い私といえ、あと1冊を残して全部読みつくしてしまう。
 「OUT」 弁当工場のパートの雅子さん、あんたはすごいよ!
 「ファイアボール・ブルース -逃亡-」 最後は泣きました!
どれも面白いのだが「荻窪東宝」のお客様には「水の眠り 灰の夢」(文藝春秋社刊 ハードカバー・文庫)をおすすめしたいと思う。時は東京オリンピック前夜の1963年。当時の風俗もよく考証されていて、異論はあるだろうが黒澤作品(天国と地獄、野良犬など)を彷彿とさせるものがある。


2002年1月14日
「佐藤允氏のトークショー」

 阿佐ヶ谷「ラピュタ」では今、岡本喜八特集の上映を行っているが、その中のイベントとして岡本作品には数多く出演されている佐藤允さんを迎えてのトークショーに行く。今日の司会をつとめられる佐藤利明氏からご案内のメールをいただいたおかげで今日の催しに気が付き、急遽友人を誘って二人で参加する。佐藤利明氏は浦山珠夫さんという、どこかで聞いたことがあるような気がするもう一つの名前も持ってらして、今日は浦山さんということになっている。
 アクション映画の中の佐藤允さんは豪快そのものだが、実際の佐藤さんはどういう方なのだろう、ということに私は興味があった。司会の佐藤利明氏は「普段寡黙な方だけに、1時間以上の長丁場、心配していたが楽しい時間を過ごせた」ともらしてらした。
 豪快だが寡黙。この言葉が佐藤允氏の男らしさを表している。豪快だが無神経、という人は世間にいくらでもいる。しかし佐藤允さんは周りにとても気を遣うとても細やかな神経をお持ちだと感じる。そういえば、と、三船敏郎さんを思い出した。三船さんも豪快ではあるが、とても周りに気遣いをされる方だったと聞いたことがある。このお二人、似ているかもしれない。
 佐藤允氏は日本のリチャード・ウィドマークといわれていたそうだが、ご本人の言葉では「私はアメリカ映画よりフランス映画が好き。ジャン・ギャバンを尊敬し、パリへは暇さえあれば旅行をしていた。」そうだ。実際の佐藤氏を見ていると、それが意外ではなく感じられる。


左が佐藤允氏。右は今回の司会を務める佐藤利明(浦山珠夫)氏。


2001年12月24日
「イブの夜は海底軍艦で」

 また「ラピュタ」へ行き、こんどは「海底軍艦」を見る。観客はカップルが一組いたほかは皆一人の客ばかり。私ももちろんその一人。淋しい奴らがイブの夜に集まった。
上映終了は夜の11時近く。阿佐ヶ谷からトボトボ歩いて荻窪に帰る。途中、ちょっとハラがへったなあ、と思ったら住宅街の中にぽつんと、ラーメン屋の明かりが見えたので入ってみる。ものすごく小さなラーメン屋で、関西弁の若い人たちの客が3人ほどいて、私が入るともういっぱい。3人の客たちは友達がアパートの家賃を20日までに入れなかったので大家から追い出される話や、楽で良い金になるバイトの話などをしていた。ラーメンは結構うまかった。カウンターのすみっこでイブの夜に一人ラーメンをすすっているオヤジ。なんだかものすごくカッコイイのではないかと思った。
ウチに帰ったら冷蔵庫にサランラップを被ったクリスマスケーキが一切れ。また一人でモソモソ食った。

話は飛ぶんですけど、クリスマスケーキっていうと白い生クリームでイチゴが乗ってるのがまあ普通です。ところが生クリームみたいにフワッとしてなくて、もっと油っぽいというか生クリームよりちょっと硬めでやや黄色みがかった「バタークリーム」のクリスマスケーキって知ってますか? イチゴなんかは乗ってなくて、そのかわり、やはりバタークリームで上手に作ったバラの花とかが乗っているやつ。スポンジの間にはマーマレードかアプリコットジャムがはさんであれば理想的。私はあれの方が大好きなんです。でも近頃は見かけないので、さらに淋しいクリスマスです。


2001年12月12日
「いちばん近い映画館」

 表紙でご案内している阿佐ヶ谷の映画館「ラピュタ」へ行き「世界大戦争」を見る。僕は今日ここへ来たとたん後悔した。もっと早く来るべきだったと。
50席ほどのこぢんまりした試写室のような雰囲気で、落ち着いて鑑賞できる。映写が始まる前、係の女性の方がマイクを通したアナウンスではなく、場内から肉声で上映開始を告げるのがいい感じで妙に感激した。


2001年12月10日
「忘年会」

 お酒はあまり飲めない。おいしいと思ったこともあまりない。やれ久保田だ、やれ八海山だ、などと言われてももてんで分からない。コーラのほうがよっぽどうまい。しかしおいしいものが食べられるので宴会は好き。(でも二次会のカラオケスナックは勘弁してもらいたい。オジサンはこういう所、行かなくてはならないことがあるんですよ。オバサン相手にド演歌唄ってるの聞いて「ハイ、一人○千円ね」などと言われるとお酒も飲んでいないのに暴れたくなる。演歌はちょっと苦手だけれども歌謡曲は好き。ムード歌謡とかね。黒沢年男は『僕は演歌は嫌いです。え?僕が唄ってるって? あれは演歌じゃなくて歌謡曲です』と言っている。)
おとといは高校の時のクラス会のような忘年会。何十年ぶりに会って誰だかわからなくて「どこのオヤジだよ。老けてんなあ」と思っても、「○○君だよ」と教えられると当時の顔が甦ってきて老けて見えていた顔がすーっと若くなる。しょっちゅう会っている友人や自分はあまり変わってないと思っていても知らない人が見ればやっぱり年相応のオッサンなのだなあ、と思い知らされる。
今日は和菓子屋の組合の忘年会。実は私、和菓子屋だったのだが今年の春、廃業している。しかし呼んでいただいた。ありがたいものだ。
そして毎年、忘年会の大トリは大晦日の夜、3人のメンバーで蕎麦を食いに行き除夜の鐘を聞く。それぞれの奥さんが加わったりすることはあっても基本的にこの3人で行くのはいつからだったろう。忘れてしまったくらい長く続いている儀式なのだ。


2001年12月09日
「東宝砧撮影所」

 世田谷に用事があり車で行き、カーナビを見ると東宝の砧(きぬた)撮影所がすぐ近い所にあることがわかり寄ってみることにする。実はいままで砧撮影所には行ったことがない。家からは10・ちょっとの距離だ。全国規模からみれば近所ともいえる近さなのだが。
砧撮影所は現在は東宝スタジオと名を変え住宅街に囲まれた一角にあった。もちろん勝手に中には入れない。以前は多分、周りは畑とかだったのだろう。正門の前以外は車がやっと通れるくらいの狭い道が多い。こういう時、カーナビは本当に役に立つ。とりあえず撮影所に沿って外を一週してみた。かまぼこ形の屋根のスタジオや海の特撮などに使われたプールがあったのであろう場所がフェンスの隙間から見える。
急に思い立って訪れたので心の準備ができていなかったせいか、かえって「ああ、ここなんだ。ここで作られたんだ」という感慨が大きい。
スタジオツアーも行われているような話を聞いたことがあるので機会があれば参加してみようかなと思う。




2001年12月03日
「哲楽?」

 テレビの公開録画の見学で、お台場にあるフジテレビに行く。東京に住んでいながら臨海副都心へはずっと行ったことがなかったのが、それが急に先週はあるイベントで行き、そして今日だ。臨海副都心というものができるまでそこに何があったのかよく知らないがまるで未来都市だ。東京のいなか者は驚いてしまう。
まあそれはいいのだが公開録画がおもしろかった。CS放送のフジテレビ721の番組に「チャンネル北野」という枠があり、その中に「談志の哲楽堂」という企画があるそうでその収録を見させてもらった。談志というのは勿論立川談志だ。談志のほかに松尾貴史(タレント)、道平陽子(女優)、西丸震哉(食生態学者)、毒蝮三太夫(科学特捜隊隊員)の5先生が様々な事柄の真理を追究する。1時間番組2本分の収録なのだが、これはちょっと放送できないだろう、という発言も少なくないので3時間の収録。たっぷり笑った。もっと長くても勿論よかった。ふれこみ通り、目からウロコの3時間だ。
談志というと嫌いな方も多いのではないかと(偏見か?)思うのだが僕はわりと好きだ。行っていることが正しいかどうかは分からないが。だいいち落語の天才だ。本人もそう言っている。現在では談志の落語をあまり聞けなくなってしまったのだが。(立川一門は寄席には出ていない。テレビでの落語放送もほとんど無くなった)
フジテレビ721関係の知り合いに便宜をはかっていただいて(ありがとうございます)席は一番前のど真ん中。ステージの上にはゆるい弧を描くように5つのイスが置いてあり出演者がそれぞれ座る。その弧を凹面鏡にたとえると焦点の位置に僕がいる。3メートルくらいの距離だ。出演者とはしょっちゅう目が合う。会場の僕に話をふられたらどうしよう、とドキドキしてしまったがそれはなかったのでホッとした。


2001年11月29日
「おもうつぼ」

 コンビニなどでジュースにオマケが付いているのを見るとすぐ買ってしまう。今年の夏はP社のコーラに猿の惑星のボトルキャップフィギュアが付いていたのでコーラばっかりガブガブ飲んでいた。なのに結局全種類はそろわなかった。C社のコーラにはLEGOが付いていたのでそれも買って、またしてもコーラを飲みまくった。ついには「まろ茶」とかいうのにはなにやら綺麗な入浴剤が付いているのまで欲しくなり「まろ茶」ばっかり飲んでいた。バカではないかと思う。
最近はG社の北海道、東北地区限定発売のキャラメルに「タイムスリップ」と称して懐かしい家電製品や自動車のおもちゃが付いているのを知り、どうしても欲しくなり知り合いから取り寄せてもらい、今はキャラメルをしゃぶりまくっています。


2001年11月21日
「英語版荻窪東宝」

 英語版「荻窪東宝」を見られるようにした。
と言っても翻訳サイトを利用させていただいてのもの。こういう事ができるとは、うかつにも今まで知らなかった。いやしかし、たいしたテクノロジーですなあ。
訳も案外正確で(といっても私の語学力で判断してのことですので”多分”ですが)感心する。見慣れたページがアルファベットで満たされると、なんだかカッコよく見える。
しかしやはり人名などの固有名詞は苦手なようで、中真千子が「Inside Truth 1000 child 」になったり池部良が「Ikebe Good」になったりするのはご愛敬。でもゴジラはやはり有名なようで、ちゃんと「Godzilla」になる。


2001年11月11日
「新宿末廣亭」

 寄席に行ってみたくなり、奥さんといっしょに新宿の末広亭に行く。
自分では落語好きみたいに言っているが、それはテレビやテープで親しんでいただけで、実は寄席に入るのはまだ2回目。1回目も末広亭だった。それも30年近くも前だ。
末広亭の前はたまに通るので見慣れているが、木戸銭(ひとり2700円)を払い、中に入るとそこは記憶以上の別世界。すでに昼の部は始まっていて、おねえさんが案内してくれる。イス席はほぼ満員なので左右にある畳に座布団の桟敷席へ。ほどなく上演中の若手さんの落語が終わり、休憩時間。いなりずしや海苔巻きのおべんとうとお茶を買い、始まるまで喫煙室でたばこを吸う。
末広亭の建物自体もそうとう年期が入っているのだが、各部の造りがこれまた実に趣深くて、昔の場末の映画館を彷彿とさせる部分も多い。たとえばこの喫煙室にしても広さは3畳ほどなのだが、ビニールのソファー、足のついた金属の灰皿、木枠の引き違い戸に模様入りガラス等々、なんとも言えず懐かしい。
さて休憩時間も終わり後半に。いなりずしを食べながら全部で7〜8つの演目を楽しむ。一番面白かったのは意外なことに漫才。大瀬ゆめじ、うたじという二人なのだが、こんなセンスのある人、なんでテレビがほっておくのだろうと思う。
テレビといえばこの末広亭、昔はなんと毎週日曜日に中継放送があった。東京では日本教育テレビ(現テレビ朝日)の番組で、毎週ひとつかふたつの出し物を放送したあと、大喜利で当時の若手、中堅で小せん、円鏡、夢楽、柳昇といった人たちが出演していたのを思い出す。司会は馬場さんというアナウンサーで、偶然、今日私たちが座ったあたりの左側の桟敷でいつも司会をしていた。
そういう噺家さんたちも今はもちろん若手ではない。噺家さんがテレビに出る機会も少なくなってしまった。今日見たなかに知っている人は一人もいない。昭和は遠くになりにけりだな。(あー、年寄りくせえ)


2001年10月01日
「長嶋茂雄監督のことなど」

 読売巨人軍の長嶋茂雄監督が本日の阪神戦をもってユニフォームを脱ぎました。(今日時点、厳密に言えばこれからヤクルトが全部負ければプレーオフなのでまたユニフォームを着るのですが)
 いままでの感動、本当にありがとうございました。豪快にして繊細、スポーツ界のみならず日本を代表する素晴らしい日本人だと思います。
 テレビでは「ひとつの時代が終わった」という声をさかんに流しています。まさにその通り、と思っていたら、そのことと一緒に書いてはいけないのかもしれませんが、同じ今日、名人・古今亭志ん朝師匠がお亡くなりになりました。私は20年ほど前、志ん朝師匠にこっていて、テレビから録音したテープを車で聴いたり、夜、寝付く時に聴いたりして志ん生ゆずりの「明烏」「つき馬」などの郭話(くるわばなし)を暗記してしまうほどでした。いつか録音テープやビデオを整理したり、できれば高座も見に行きたいなどと考えてていたところでした。ご冥福をお祈り申し上げます。


2001年8月10日
「東宝俳優人気投票」

 今年の5月25日からスタートした「東宝俳優人気投票」ですが、2ヶ月半の間に1788票ものご投票をいただきましたが、本日とりあえず締め切りとさせていただきました。前回の「特撮作品人気投票」は約半年の期間で600票余りでしたので、やはり俳優さん個人への投票となると、熱心な応援など関心の高さを示した結果になりました。
 1位に輝いたのは江原達怡さんです。若大将シリーズでおなじみの江原氏ですが、若大将シリーズ以外にも、というか、若大将シリーズ以外のほうがずっと多く東宝作品に出演されていて、今日までの根強い人気をあらためて感じさせていただきました。
 おしくも僅差で2位の植木等さん以下、93名のノミネート中、上位30名の俳優さんを発表しておきます。しかしもちろん、ここに入っていない役者さんも東宝映画にはなくてはならない、そして人気を誇った俳優さんたちであったことは言うまでもありません。

順位 名前(敬称略) 得票数

01 江原達怡 149
02 植木 等 145
03 加山雄三 128
04 小林桂樹 84
05 三船敏郎 81
06 佐藤 允 76
07 森繁久弥 53
08 黒沢年男 42
09 夏木陽介 37
10 志村 喬 33
11 酒井和歌子 31
11 フランキー堺 31
13 堺 左千夫 27
13 団 令子 27
15 若林映子 26
16 田中邦衛 24
16 平田昭彦 24
18 宝田 明 22
19 谷 啓 21
19 藤山陽子 21
19 星 由里子 21
22 山茶花 究 20
22 淡路恵子 20
22 二瓶正也 20
25 藤木 悠 19
25 三木のり平 19
27 久慈あさみ 18
27 有島一郎 18
27 伊藤雄之助 18
30 中 真千子 17



2001年5月27日
「昔のテレビ受像機」

 1950年代から60年代くらい(というより昭和30年代と言ったほうがふさわしい)の古いテレビをコレクションしている方がいて、見せていただきました。角のまあるい白黒画面のあれです。
持ち込まれた古いテレビの修理なども引き受けられているというので、失礼ながら雑然とした仕事場を想像していたら、とんでもない、オートロックの近代的なマンションの一室に整然とそれらが並べられていて驚いてしまいました。50台くらいはあったでしょうか、ほこりをかぶっているような物は一つもなく、とても手入れが行き届いていて、愛情が感じられます。それでもここにあるのは所有している一部だというのでさらに驚きました。
この方はそれが本職ではないのだけれども、アンティークとして市場に出ている「映る」テレビの9割がたはこの方の手に掛かった物だといいます。この日も私のほかに2組、修理の依頼で訪れていた人がいましたが、とても良心的な仕事をされているという感じです。

 実は私も古いテレビは好きで少しだけれどもコレクションもしています。コレクションというのはただ数を集めるだけでなく、系統立ったテーマがあったり、気に入ったデザインであったり、稀少なものであったりというのなら、全然コレクションとは言えない代物が多く、ただいくつか持っているというだけなのですが。
 私が古いテレビがほしい、と思ったのは20年くらい前からです。それでもほしい対象のテレビはそれからさらに20年くらい前の物なので手に入れるのは容易ではありません。なぜなら、たとえば電蓄(電気蓄音機。昔のレコードプレーヤーですな)であるとか、真空管のラジオであるとかなら古道具屋さんにも並んでいたのですが、テレビとなると全く皆無です。アンティークとしての地位が確立されていなかったのです。だからほしいと思っても売っているところが無い。価値がないのだからゴミのようなもののはずなのに、なぜか捨てられてもいない。しかたがないからそれでも一生懸命、落ちてないか探すわけです。しかしいくら20年前とはいえ、そうそう捨ててあるわけではありませんでした。あったとしてもあまり面白味のない、比較的新しい物ばかりです。(といっても、それから20年経った現在ではこれもまた味わいのある物になってきているのですが)
 そこで知り合いの電器屋さんに聞いてみました。下取りして捨ててしまうテレビはどうするのかと。そうしたらそれは専門の処理業者がいて集めているのだと判りました。場所をきいたら一応都内なのですがえらく遠くです。行きました。そこまで。そうしたらありましたありました。テレビの墓場が。もう宝の山です。と言いたいところですが欲しいのはそのなかのほんの一部。百台か二百台の中の一台くらいです。ブツは雨ざらしで山積みされています。その下の方に埋まっているのを見つけては業者さんに「あの、すみません、これ……」とか言うと、親切な人で、「あいよ」と言って取ってくれます。そこで2〜3台もらったのが私のコレクションの始まりでした。
 それから何年か経ったあたりからアンティークとしてのテレビの地位も少しはできてきて、下北沢あたりの店であるとかにも並ぶようになってきました。現在ではYahooのオークションとかにも、いつもいくつか出品されています。

 今回、私がおじゃましたコレクターの方はだいたい私と同じ位の年齢のようでした。月光仮面や少年探偵団と共に少年時代を過ごしてきた世代です。しかし修理の依頼で来ていた二組の方達は20代のようでした。熱心にいろいろ質問する様子を見ていて、頼まれて来たのではないことはすぐわかります。物の魅力というのは不思議だなあ、と思います。


2001年5月15日
「東宝俳優人気投票」

 以前から俳優さんの人気投票をやってみたかったのですが、なんとなく躊躇していました。しかしそれで役者さんとしての優劣を比べるわけではないし、少数派ならではの魅力を持った役者さんも当然存在するわけですし、実施することにしました。どんな結果になるのかとても興味深いと思います。ぜひご投票お願いします。
 昨年からご投票いただいていた「特撮人気投票」は締め切らせていただきました。ありがとうございました。結果をここに残しておきます。さすがに上位にランクされた作品はどれが一位になってもおかしくない傑作ぞろいで、とても順当な結果のように思えますがいかがでしょう。

順位 タイトル 得票数

01 空の大怪獣ラドン 51
02 フランケンシュタイン対地底怪獣(バラゴン) 48
03 妖星ゴラス 45
04 海底軍艦 44
05 フランケンシュタインの怪獣サンダ対ガイラ 43
06 モスラ 41
06 マタンゴ 41
08 地球防衛軍 37
09 ゴジラ 34
10 ガス人間第一号 31
11 モスラ対ゴジラ 30
12 キングコング対ゴジラ 28
12 三大怪獣地球最大の決戦 28
14 怪獣大戦争 26
15 宇宙大戦争 17
16 大怪獣バラン 14
17 緯度0大作戦 13
18 美女と液体人間 11
19 電送人間 10
20 世界大戦争 9
21 キングコングの逆襲 8
22 怪獣総進撃 7
23 ゴジラの逆襲 5
24 日本誕生 4
24 宇宙大怪獣ドゴラ 4
26 ゴジラ・エビラ・モスラ南海の大決闘 3
26 白夫人の妖恋 3
28 透明人間 2
28 1967 怪獣島の決戦ゴジラの息子 2
28 1955 獣人雪男 2



2001年4月29日
「東宝俳優の同窓会」

 往年の東宝映画に出演されていた俳優さんたちは、今でも交流があるのだろうか、たまに集まって現役時代の想い出話に花をさかせる会があるのではないだろうか、などとはいつも想像していました。そんな集まりがあったらなんて素晴しいだろう、でも多分、そういうことも、もうないのなかもしれないなあ、とも思っていました。
ところがあったのです。
似顔絵の小穴さんがその会に出席したのだそうです。
彼女が江原達怡さんの「夢穂高美術館」で似顔絵展を開いたのは前に書きましたが、それらの作品の紹介も兼ねて、招待されたのだそうです。(いいなあ!)
今月の某日、都内のホテルで開かれた「東宝映画俳優クラブの集い」というのがそれです。
出席者は総勢約60名なのですが、私の知っているところでは、池部良、佐藤允、中丸忠雄、夏木陽介、江原達怡、伊吹徹、西条康彦、大前亘、若松明、宇野晃司、中島春雄、水野久美、北あけみ、原知佐子、中真千子、中川ゆき、南弘子、(順不同、敬称略)といったところです。ちょっとすごいです。

今はそれぞれの立場の方たちが、以前は同じ目的のために活躍された人たちが、40年の月日を経たある日、まるで引き寄せられるように一つの場所に集まる。 なんだか神秘的にすら思えます。当事者でもない私まで、なんだかわけもわからずじーんとしてしまうような感動的なことです。

この出席者の名前を見ていて、この日たまたま都合のついた方々が集まった偶然の顔ぶれとは思えない、なかなかの配役のような感じがしませんか? もしこのメンバーで出演している作品があったとしたら、きっとすごくおもしろい作品ですよね。 出演者からして監督は岡本喜八さんかなあ、やっぱり。中島春雄さん(ゴジラの中身だった人)もいるからゴジラも出てくる特撮・青春サスペンスアクションものですね。きっと。


2001年3月7日
「荻窪の映画館」

 ある人に「あなたの住んでいる荻窪の映画館の思い出」について聞かれたので、ではここで書きます。ということにしました。
荻窪には現在、一軒の映画館もない。荻窪という土地を知らない方に説明すると、一応、JR中央線沿線にあって、東京駅からは約30分。駅前にはビルもたくさんあるのだが、5分も離れるともう住宅街、という、まあ半端に開けた場所です。
しかしこんな程度の街にも映画全盛期には5〜6館もの映画館がありました。
私は昭和24年の生まれで、それ以前のことは分からないのですが、私がものごころついた頃には「荻窪文化」という映画館だけがありました。ここは新東宝の封切り館で、アラカン(嵐寛寿郎)の「鞍馬天狗」や(歳がバレますな。生まれ年を言ってるんだからもうバレてるか)宇津井健の「スーパージャイアンツ」を見た記憶があります。ほとんどは母親に連れて行ってもらっていたのですが、なぜか東宝作品の「ゴジラの逆襲」を父親といっしょに見に行った記憶があります。「ゴジラの逆襲」に出てきたアンギラスの映像が鮮明に思い出されます。父親から「あれは模型を使って撮ったのだ」と説明されたように覚えています。
昭和30年代前半の、当時は「郊外」と呼ばれただであろう荻窪のその映画館は、なぜか明るく楽しい娯楽の王様、ではなく、なんとなく秘密めいた薄暗い雰囲気であった印象です。しかし今思い返してみると、小さな売店で買ってもらったラムネやジュース、それを飲む、ひびわれてズーズーいう麦藁のストロー。できることなら今、もう一度入ってみたい趣深い映画館ではありました。
その「荻窪文化」は取り壊された後ローラースケート場になったりして、現在ではアメリカンエクスプレスの本社が入っている高層ビルが立っています。
「荻窪文化」の次にできたのが「スター座」。最初は洋画封切り館で、その後ピンク映画専門館となり、荻窪では最後の映画館として数年前までがんばりましたが、いまは区の駐輪場。入場券の販売窓口のあたりがタイル貼りになっていたりしていい感じだったなあ。

さて、いよいよ1960年代頃の映画黄金期には駅のすぐ近くに東宝、日活、東映、それに洋画封切りの4館がズラッと並んでいました。お正月とかになると、お客が入りきれないほどおしかけて、通路に座り込むのは勿論、立ち見の客でドアが半開き状態になって、背伸びをしたり、子供は親に肩ぐるまされたりして映画を見たものです。考えられます?
特に「荻窪東宝」についてはこの支配人日記の一番最初に書きましたのでよろしかったらお読みください。

私は荻窪のこのような映画館に出入りして今日に至ってきたわけです。(ピンク映画館になってからのスター座には、はずかしくて入れなかったのですが)
子供の頃行った繁華街の映画館は圧倒的に新宿でした。特に大作といえばミラノ座が多かったです。今の私の奥さん(いままでの奥さんも、これからの奥さんも今のところいない予定ですが)と初めて行った映画館は新宿プラザで007でした。余談ですが。

本や漫画と違って、絵空事とわかっていながらも生身の人間が演じる「実写」で見せられた映画からは、私たちは強烈な影響を受けてきたと思います。 こんなこと書くとなんだかキザではずかしいのですけど、友情だとか愛だとかついて考えたり、カッコよさにあこがれたり、こういう生き方っていいなあ、と思ったり、いつかはこんな女優さんみたいな人と恋をしたいなあ、なんて思ったり。 私たちがかつてあの暗闇で見てきた『映画』は、今の私たちを形作っている主要な要素のひとつかもしれません。


2001年1月17日
「夢穂高美術館」

 当「荻窪東宝」の「似顔絵のお姐ちゃん」の作者である小穴ひとみさんがトップページでお知らせしているように、長野県の「夢穂高美術館」で似顔絵展を開いていて、私もやっと行ってまいりました。
小穴さんは弱冠22才のお嬢さんなのですが、どういうわけだか1960年代くらいの東宝作品が大好きで、ハタチ前から東宝スターを描き続けているのですからおそれいっちゃいます。
そして今回の発表の場である「夢穂高美術館」はご存じの方も多いと思いますが、俳優の江原達怡(えはらたつよし)さんが館長をつとめる美術館で、有名人の描いた作品を専門に展示していることで有名です。
江原さんは数多くの東宝映画に出演されていますが、若大将シリーズで雄一の属する運動部のマネージャー役でおなじみです。
小穴さんが東宝スターの似顔絵展を開くにはこれ以上ふさわしいところは無いといえるでしょう。

さて私が「夢穂高美術館」へ行ったのは1月10日のことなのですが、もう実にいろいろあって、うーん、何から書いたらいいのか迷ってしまうのですが、とりあえず順番に書くことにします。
新宿を朝の8時発の「スーパーあずさ」とかいう、なんだかかっこいいのに乗って「夢穂高美術館」の最寄り駅である穂高駅についたのは11時ちょうど。
駅前からタクシーで「夢穂高美術館お願いします」と言ったらすぐに分かってくれました。
「タバコすっていいですか?」と運転手さんにに聞いたら「10分くらいですねえ」と返事が返ってきました。
ま、いいやと思っているうちに、おお、ついに「夢穂高美術館」に着きました。前日積もった雪のせいで、なおさら閑静に感じられる林の中にあって、ちょっと美術館らしくない、さりげないたたずまいです。
あとで聞いたところによると、隣にもっとハデな感じの別荘があって、そっちを夢穂高美術館と勘違いして行ってしまう人もいるらしいです。

タクシーを降りると、その音が聞こえたらしく、美術館の中から一人の女性が出てきて「河合さんですか?」と聞くじゃありませんか。おもわず「あ、はい」と答えると「お待ちしてました」と言って中に案内してくれました。
小穴さんに行く日を伝えてあったので彼女が連絡しておいてくれたらしいのです。
そしてそして、そのおかげで江原さんに会うことができました!
私は江原さん出演作の中では一番新しい「メッセンジャー」を見ていなくて、一番最近の江原さんは1981年の「帰ってきた若大将」なものですからちょっとまごつきましたが、間違いなく本物の江原さんが、あのマネージャーの江口君が私を迎えてくれたのです。
江原さんに会えるとは思っていなかったので、なんだかしどろもどろの挨拶をした後、館内を見てまわりました。

まず館長のしたためた挨拶文が掲げてあります。
「ここに展示してある作品は、美術とは関係のない世界ですばらしい業績を残されている方々の『夢の世界の表現』です。世の中に名前を知られた著名人の本業が、その人のわずかな部分でしかないということがお分かりいただけると思います。」(抜粋)か。うーん、さすが江原さん、いいこと言うなあ。
などと感心したあと、いよいよ作品です。

写真でしか知らない加山さんの海の絵、「おお、これだこれだ」
やはり印刷物で見たことのある黒澤監督の絵コンテ、「おお、これだこれだ」
片岡鶴太郎さんの作品、「あ、すげえ」
佐藤允さん「わあ、らしいや」
夏木陽介さん「車が好きだからなあ」

などなど展示されている数多くの絵画は、私が想像していた「芸能人が描いた絵」をはるかに越えている作品ばかりでした。本当に驚き、感動します。

そして、
「おっ、あったあった!あははは・・・」
小穴さんの作品をまとめて展示してある部屋。
「うわあ、あははは」
もう、一人で笑いっぱなしでした。

淡路恵子さん「夜の街をバックにたばこ片手の厚化粧! 感じでてるなあ」
三木のり平さん「小穴さん、やっぱりのり平さんのこと分かってるよ」
江原さん「このヘアスタイル!これですよこれ!手に持っているクシがいいですねえ」
エレキの若大将からの場面「加山雄三や寺内タケシってガニマタでリズムとるんですよねえ、最高!」
椿三十郎からの場面「金魚とフンか、こりゃいいや!」

などなど小穴さんのは全部で40点くらいもあります。もうほんと、おもいっきり楽しめました。
中には「こりゃあいくらなんでも失礼すぎやしませんか」と見るほうがビクビクしてしまうようなデフォルメをした作品もあるのですが、東宝スターならそんなことで怒るような人はいないだろうから大丈夫。
順路を一巡りして戻ってくると江原さんは館内にある喫茶室にいてくれて「河合さん、コーヒーでいいですか?」とごちそうしていただきました。
私は江原さんとお会いできるとは思っていなかったので、私からはとりとめのない会話に終始してしまいましたが、江原さんは当時のことなどをいろいろ話してくださいました。
喫茶室には東宝関係の出版物やアルバムなども閲覧できるようになっていて、こりゃもう東宝ファンなら行くっきゃないですぜ!

そろそろおいとましようかと思っていたら、江原さんが「河合さん、そば喰いにいきましょう」とお昼にさそっていただいたのには本当に驚き、感激でした。
元レーサーの江原さんの運転する軽自動車に乗せてもらい、雪景色の中をドライブすること約20分、見晴らしのいい所にあるそば屋に連れて行ってもらったのです!
私は江原さんがモータースポーツに関わっていたことは知ってましたが、それは趣味の範疇なのかと思っていたのですが、日産や三菱などのワークスドライバー(メーカーが正式にサポートするチームのドライバー)をやっておられたことをうかがい、びっくりしてしまいました。加山さんが江原さんに「スピンターンのやりかた教えろよ」とせがんだりしたそうです。
そば屋でも江原さんは映画のこと、美術のこと、いろいろ話してくださいました。
その後、また軽自動車で駅まで送ってもらい、私は感激で恐縮で感謝で、もうなんだかいっぱいでした。

江原さん、どうもありがとうございました!

そして小穴さん、本当にありがとう。一生忘れられない日ができました。
それから、作品、とてもよくできていて、心から楽しめました。

江原さんは現在63才で若大将映画の当事者、私は51才でそれをリアルタイムに見た世代、小穴さんはブラウン管で面白さを発見した世代。上下40才以上のへだたりがあっても同じ話題で語れる当時の東宝映画って、世代なんて軽々と越えてしまうものすごいパワーを持っているんだなあとつくづく実感した一日でした。


左・「夢穂高美術館」玄関前で 右・ワゴンRと江原氏


2000年8月10日
『日本一の一発男』体験記

 60年代東宝作品関係などの著作、企画などを多数手がけておられる娯楽映画評論家の佐藤利明氏とはメールをつうじて懇意にしていただいていますが、今度、氏がプロデュースする番組がCS放送スカイパーフェクTV!のフジテレビ721で放映されます。
『リスペクト探Q大図鑑』がそれで、さまざまなジャンルにウンチクをかたむけようというもので、その第2回目放送分に『乾杯!サラリーマン諸君』という回があり(8月23日放映)植木等の無責任ものや森繁の社長シリーズなどがとりあげられます。
その中で西宝という架空の映画会社が作る『日本一の一発男』という劇中映画があり、なんと私がそのオープニングの『西宝スコープ』と東宝風に光り輝く映像を作らせてもらえることになりました。 先日の5日に麻布で『日本一の一発男』の撮影があり、見学ついでにエキストラで出演までさせてもらってきました。
植木等役をやる若い役者さんは、植木さんにそっくりというわけではないのですが、よく研究していて感心させられます。すごく植木風の茶色の背広(あと植木さん、グリーンなんかもよく着てました)が衣装なのかと思ったら自前だというのでびっくり。社内で課長(この人がまた似てるわけじゃないのに実に人見明!)の背中を「いよう!課長!」とたたくのですが、佐藤さんや監督の河崎実さんから「課長を課長とも思わないで、もっとおもいっきりいってください。異常なヤツなんだから」とゲキがとびます。
河崎実監督は古澤憲吾監督の伝統を継承しようとする本人役で出演もします。衣装が上下真っ白にサングラスでこれまた古澤監督そのもの!(あんまり見たことないけど)
その後屋上で間近にそびえる東京タワーをバックに植木等の例の踊り。
いやあ素晴しい!感激の一語!生きていてよかった!
佐藤さんが「スケールはちがうだろうけど、当時の撮影もこんな感じだったんじゃあないかと思いますよ」と一言。
いや、まったく。涙がでるほどのバーチャルリアリティーでした!
この番組は8月23日に放送されますので、フジテレビ721の視聴が可能な方はぜひごらんください!


左・おお、平成によみがえったあの風景! 右・河崎監督、案内役の山茶花究子、ウンチクの神、アサシン


2000年8月7日
あの京南大学の先生からメールが届いた!

 たまに「荻窪東宝」を見ていただいた方からメールを頂戴することがあります。どのメールも大変はげみになり、ありがたいことは言うまでもありません。
先日は慶應大学の教員をしてらっしゃる方からメールをいただきました。さすがにアカデミックな視点から東宝作品を見てらして、なるほどそういうことなのか、と思わずにいられないものでした。
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はじめまして、私、白井義昌と申します。
自己紹介いたしますと、昭和38年生れで現在慶應大学の経済学部 で教員をしている者です。大学生のころどういうわけか、昭和30 年代の東宝映画が好きになり、若大将、クレージーキャツ、社長 シリーズなどを毎週のように浅草東宝のオールナイトで見まくっ ておりました。
支配人様の「なぜ東宝なんでしょう」の「東宝作品の徹底した都会的エンターテイメントにひたって、当時の人々の生活ぶりに想いを馳せる、というのがとても楽しいのです。」 というくだりには、共感せずには居れませんでした。
やっぱり東宝の作品は明るく華やかですから。私は矢口書店で入手した 東宝友の会の機関紙「東宝映画」などをたまに見てタイムトリップしたりしています。

ところで、職業柄気になっていましたが、明らかに若大将は慶應の経済学部生という設定ですね。銀座の若大将では、出だしから左卜全教授がケインズの一般理論の講義をしていましたし(ちなみに講義の内容は本格的なものです。映画の中の黒板には正確なケインズの第一公準、および第二公準の公式が書いてありました。
これには僕は本当に驚きました。おまけに左教授は雄一の弁当を講義中に試食してこれはうまいと例の調子で言うのには本当に笑ってしまいましたが)、ハワイの若大将では平田昭彦教授が経済史の試験をしていまた。私は学生当時(1986年ころ)、ほんとに大学の雰囲気が変わってないなと思っておりました。
もっとも左卜全教授のような器のでかい先生はおりませんでしたが...

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(私からの返事のメール)
加山雄三さんの出身校でもあり、おっしゃるように若大将が在籍する大学の モデルになっている慶応大学の先生からメールをいただいたのは、まるで、 京南大学の先生からメールをいただいたような錯覚をおこしてしまいました。 とても光栄で、うれしいです。
左卜全教授の講義の内容についてのお話は大変興味深いことをうかがいました。
たしかにこういった部分がちゃんとしているか、いいかげんなものであるか は、それを分かる人が見たら、映画全体の印象はずいぶん変わってくるので はないかと思います。そしてそれがもし必要以上に本格的なものだとしたら、 とてもよい洒落ですよね。
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京南大学(?もうなりきっちゃてます)の白井です。

ところで、本当に東宝の映画は脚本の細かい ところがよくできていると思います。左ト全教授の講義内容についてさら に申し上げますと脚本家は意図的にケインズを用いたような気がして なりません。知識人(とくに大学の)たちの間では当時左派が幅を利か せていましたが、時代は高度成長期、先進国の仲間入りをしようとして いる日本の経済的活力を象徴するように近代経済学の代表格である ケインズの講義を映画でとりあげた点については脚本家の時代感 覚の鋭さがうかがえます。講義内容がマルクスだったりしたら、だい なしです。あくまでエンターテイメントであることを主にしていますから、 それらを思想的に主張するのではなく洒落のかたちで表現している 点はこれまた東宝映画のすばらしいところです。
特に、クレイジー、 若大将、社長シリーズではこの手の洒落(河合さんのおっしゃるハイレ ベルなギャグもふくめて)がたっぷり入っていて僕は大好きです。

気にいってるギャグとしては無責任野郎の藤山陽子と浦辺粂子の間 で交わされる会話で、(谷啓と結婚した藤山は谷の母である浦辺との 間で生活上のジェネレーションギャップで対立しています。毎日すこし ずつ洗濯をする戦前派の母に対して、現代派の藤山は週に一度洗濯 機でまとめて洗濯した方が水道代もういてよいと主張しています)
(藤山)「お母さまももっと社会的見地にたってくださいな」
(浦辺)「社会、社会って、あたしゃアカじゃないよ!」
というものです。僕は藤山陽子の熱烈なファンなので数すくない彼女 の出番の中でのこのギャグは贔屓目もあってか気にいってます。
ご存知のとおり、その後、浦辺粂子おばあさんは「バックル、バックル バックル!ストーップ!」ってな調子で時代に適応しちゃうわけですが、 どんどん移り変わる時代にたくましく生きていく日本の人々を明るく 応援するようなスタンスが東宝映画にはあっていいですよね。

そういえば、最近、五木寛之と塩野七生の対談集「おとな二人の午後」 という本を読んでいたら、こんな話が出てました。五木氏がドストエフス キー生誕150周年の講演の題名を「明るく楽しいドストエフスキー」にした 理由を次のように語っています。
「『明るく楽しいドストエフスキー』という題名は、ドストエフスキーを 笑いながら読むっていうロシア人のほうが、重厚に深刻に読むよりは正 しいってことを僕は言ってるわけ。だけどなぜこのタイトルをつけたかっ ていうと、ぼくはいつも即興で話をするものですから開演の前にどういう 題名にしようかなって、控え室で迷ってた。で、窓からむこうを見たら、 東宝映画の大きな垂れ幕がさがっていて、『明るく楽しい東宝映画』と 書いてあったんだ。それは東宝映画のキャッチフレーズなんですよ。 明るく楽しい、あっ、これがいいって(笑)。それで「明るく楽しいドストエ フスキー」って話をしたわけ。」
いい話ですよね。考えようによっては、(私は真剣にそう思って ますが)東宝映画はいわゆる芸術映画よりもある意味深いですね。
森繁社長じゃないですが、まさに「いいねえー、東宝映画」という感じ です。なんだかメイルが長くなってしまいました。すみません。
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何で東宝映画はおもしろいの? 何でスッと入っていけるの? 東宝らしさって何? という漠然としか考えていなかった、疑問とも思っていなかったあたりまえのことの一端を私はこのメールに見事に解き明かしてもらった気がしたのです。
これはぜひ私以外の東宝ファンにも読んでいただきたいと思い、承諾をいただき抜粋して掲載いたしました。



2000年4月13日
機種交換しました。

 携帯電話の機種交換をしました。
 私はそもそも携帯電話を持ったのは遅かったほうで、最初は携帯電話に変に反発していて、歩きながら電話している人などを見ると「ケッ!」とか思っていたのですが、時代の流れでそうも言っていられず、照れながら買ったのが3年くらい前。それからもう三回目の機種交換です。だって安いですものねえ。
 機能はだんだん増えてきて、もう難しくて難しくて。分厚いマニュアルが二冊もついてきます。やれアドレス帳だ、やれメールだといろいろなことができて、おじさんはもう何が何だか……。
 電話をかける時は受話器を持ち上げてダイヤルを回す。お話が終わったら受話器を置く。だけの時代はシンプルでよかったですねえ。
 あのころの電電公社の頃の電話機って、マニュアルがついてきたんですかねえ。「ダイヤルの回し方」とか「受話器の構え方」とかあったのかもしれません。
「脅迫電話をがかかってきて、犯人から電話を切られた時は、『もしもし、もしもし』と叫びながら受話器を置くところをガチャガチャ押すのがお約束です」とかね。
 「かけるボタン」と「切るボタン」だけのダイヤル式の携帯をカバンから取り出して、ダイヤルをジーコン、ジーコンやりだしたらカッコイイと思うけどなあ…。 カッコわるいか、やっぱり。


2000年2月26日
フォントのこと

 私のMacのために、欧文フォント(アルファベットの書体)がたくさん入ったCD-ROMのついた本を買いました。
「True Typeフォントパーフェクトコレクション」(発行・インプレス 深沢英次&インプレス編集部 編)という本です。
本の内容は、CD-ROMに入っている書体の見本が印刷されていることで、そのほとんどが費やされているのですが、最後の方の十数ページに、欧文フォントについての解説がのせてあります。それがとても興味深いものでした。

普段、なにげなく目にしている英文の広告や洋書や英字新聞。(読めないけど) そういう文に使われる書体にも色々ある、ということは分かってました。パソコンにもいろいろなフォントが最初から入っています。新聞の本文などに使われる、基本的に縦線が太くて横線が細く、先端にひげ飾りのついたもの。(セリフという。和文フォントの明朝体に相当する) また、見出しなどに使われることの多い、縦横、同じくらいの太さで、ひげ飾りのついていないもの。(サンセリフという。和文フォントのゴシック体に相当) 大きく分けてその二つの中にもものすごく沢山の種類があり、さらにいくつものバリエーションがある、というのもなんとなくは知っていました。
しかし、その沢山の書体に、それぞれの歴史があり、お国柄があらわれている、というようなことは今まであまり考えなかったことでした。
たとえばサンセリフで代表的な書体にFuturaとかHelvetica とかUniversというのがあります。3つとも私たちから見ればごく普通というか、これみよがしな特徴はないように見えます。しかしFuturaはドイツをイメージさせる書体で、Helvetica はスイスを、Universはオランダをイメージさせる書体なのだそうです。 (うーん、そう言われてみれば....やっぱり分かんない....)
同じくセリフではGaramondという書体はフランスをイメージさせるそうです。だからきちんとしたイタリア料理店ではこの書体を使わないそうです。 (えー? それフォント?)(シャレ)
この本はこうも書いてます。たとえば私たち日本人がアメリカの映画を見ていて、日本人とおぼしき人が出てきて、変な漢字が書いてあるTシャツを着ていたりすれば「えーっ!違うー!」って思いますよね。それは私たちが漢字に対しては敏感だからです。
もし高級な日本料理店へ入ったとして、まるで中国語のような書体のメニューだったとしたら「この店、ちゃんとしたもの出すのかな」と思ってしまいますよね。
なるほど、だから逆に私たちが欧米風と思って作っているものが、欧米人の目にはどんな風に写っているのか、とても興味があります。「笑っちゃうよな」なんて思われているのかもしれません。
この本の書体の解説はおおげさでなく、私には目からウロコでした。

うーん、書体。これは奥が深いぞ。


2000年1月4日
林家三平さん

 日記とか言ってるのに2ヶ月もさぼってしまいました。
どうも明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。
私、元旦から風邪をひいてしまって、まだ全然ダメな状態です。薬を飲んで厚着をして寝ると汗がびっしょり出て、それでいつもなら風邪なんて治ってしまうのですが、今回は寝汗びっしょりをもう2回もやってるのにまだだめ。こういう時って普通の状態って、なんていいんだろうってつくづく思いますよね。

年頭にあたり、っていう話ではないのですが、テレビでお笑い芸人を見ていたら突然、林家三平さんのことを思い出したので(熱のせいか?)書きます。
林家三平さん知ってますか?若い方はご存じないかもしれませんね。(ああ、そんなこと言う年になってしまったぜ)林家こぶ平や海老名みどりのお父さんです。
三平さんは新作落語の噺家さんで、伴奏にアコーディオンを従えたりしていて、かなり革新的な人でした。面白さは超一流で、風刺をしたり下ネタで笑いをとったりは一切せず、純粋にクダラナサを追求した人です。
そんな三平さんがこの世を去ろうとしている時、担当の医師が近しい人たちを三平さんの病床に呼び寄せました。
医師は意識の朦朧としている三平さんに「三平さん?分かりますか?自分の名前が言えますか?」と呼びかけると三平さんはやっと口を開き「加山雄三です」と答えたといいます。
わたしはこの話に猛烈に感動しました。ここまでできませんよ、普通。
私はべつにお笑い芸人ではありませんが、こんな人になれたらなあ、と心から尊敬できます。


1999年11月6日
ボカァしあわせだあ!

日本映画を愛する人たちが組織する会が催す上映会に参加できる機会があり、行ってきました。
今回の出し物は「日本一の若大将」。若大将シリーズ18作中でも最高傑作とする人も多く、私もビデオでは何回見たか知れない大好きな作品です。
同行してくれた友人(もちろん東宝好き)と二人でお茶の水にある会場に入り、今回の企画を立てられ、私にも参加のご案内をしていただいた娯楽映画評論家の佐藤利明氏にまずごあいさつ。佐藤氏は若大将、クレージーものなどの著作や、映画ソフトの解説などで、そのスジでは第一人者の方で、私はメールを通じて懇意にしていただいています。
すると佐藤氏は近くにいた女性の方を私に紹介してくれました。その方はなんと若大将の妹、照子役の中真千子さん。「日本一の若大将」から37年、現在でも照子さんの面影をたっぷり残した上品なご婦人、といった印象です。
上映が始まるまでの間、中さんと会話できる機会がありましたが、私はしどろもどろになってしまい、「今でも中さんが出演なさった若大将や社長シリーズはごらんになられますか?」とか「俳優さん仲間の方とは今でもご交流はありますか?」といった月並なことしか質問できませんでした。中さんはそんな質問にも笑顔で丁寧に答えてくれました。丁寧といえば、それは中さんの特長だと私は思っています。若大将シリーズでも照子役の中さんはいつもセリフを丁寧に、笑顔で話しています。そのまんまの中真千子さんがその時の私の目の前にいました。
中さんのお話の中で、堺左千夫さん(若大将シリーズでは「赤まむし」役、他に多数出演)が去年、亡くなられたのを聞いたのは堺さんが画面に現れるのをいつも楽しみにしていた私にはショックでした。

そしてこの作品を監督した福田純氏が来場、私の斜め後ろに着席。私の隣には中真千子さん、という信じられない状況でいよいよ上映開始。
これがまた素晴しい画質。キズや退色など全然無くもうバッチリ! 後で聞くとそれもそのはず、まだ映写機に一度くらいしか通してないニュープリントを東宝から借りてきたのだそうです。もう公開当時そのままの画です。

この作品は照子がお見合いをするなど、シリーズ中でも照子の出番が多く重要な役割です。スクリーン上では中さんが演技をしていて、私の隣にも37年後の中さんがいる、という不思議な状況は、映画鑑賞中はあくまでもスクリーン上が現在で、私は37年後の未来に連れてこられたような不思議な錯覚を生みます。
エンドマークが写しだされ、場内に拍手が起こり、私は中さんを見ると、中さんはそっと涙をぬぐっていたのが印象的でした。

上映の後に佐藤氏の司会で福田監督、中真千子さんのトークショーもあり、目の前にいるたずさわった本人の口から出る言葉にはやはり重みがあります。田中友幸、藤本真澄プロデューサーのこと、同時期の古澤憲吾監督のこと、海外ロケのこと、自分の映画の作り方のこと、などなど数々のエピソード。
長年東宝好きをやってますが、心からやっててよかった、と思えた一日でした。


左から佐藤利明氏、中真千子さん、福田監督、荻窪の若大将、友人の関口君


1999年10月22日
江原達怡さんの美術館

 またまた「似顔絵のお姐ちゃん」の作者、Kさんのことです。
 伊豆の堂ケ島にある「加山雄三ミュージアム」へ彼女が訪れた話は前に紹介しましたが、今度は若大将シリーズでマネージャー役などを演じてらした(えはらたつよし)さんが館長をしている美術館へ行ってきたそうです。いや、ほんとにスジガネイリの東宝ファンなので感服します。
 そこで彼女は思いがけない体験をしてきたそうなのですが、私が説明するより、彼女から私にいただいたメールを読んでいただいたほうが感動が伝わると思いますので、本人の承諾を得ましたので、ここに公開することにします。
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Kです。最近やたら寒いですがいかがお過ごしでしょうか。

こちらはもうえらいことになってました。
ちょっと長いけど最後まで読んでみてください。

今日、長野にある夢穂高美術館という所にお母さんとおじいちゃんと3人で 行ってまいりました。 館長は、あのラリー指導の江原たつよしさんです!

今年の夏にやった『メッセンジャー』という映画のパンフレットの中の 江原くんの紹介のとこでその美術館のことを発見しました。
そして「行けたらなあ」ではなく「行く」という思いの毎日でした。

そして今日、高速で間違えて通り過ぎて、二千円と時間をロスすると いう悪事態にみまわれつつも、なんとか無事に到着しました。

とても素敵なところでした。静かで景色もいいし。
その美術館には、俳優や歌手など、たくさんの有名人の絵画だけが 展示してあります。
八代亜紀はもちろん、加山さんや黒澤監督や夏木陽介さんの作品もありました。
おじいちゃんとゆっくり、たんねんにみてまわりました。

そして最後の最後に、な、なんと、あの佐藤允さんの風景画までもが 展示されていました!!うおおおお(笑)
私はもうくらくらするほどの驚きと喜びをその場でくらってしまって ちょっとおかしくなりました。
すごく佐藤さんらしい描き方で、私はこれだけでも行った価値がありました。

絵の上手い下手じゃなくて、描いた方の心というか、その人自身、その人らしさ がよく伝わってきました。良かったです。芸能人って、多才な人が多いですね。

館内には喫茶店もあるのですが、その入り口にすごいシロモノがあるんです。
それは、東宝オールスタートランプ!!もちろん当時の。
これ、ホント感動ものです。ちゃんと額にかざられていました。
1枚1枚に顔が描かれています(写真かも)。
東宝スターのみだから、三船さんはもちろん、佐藤さんも江原くんも平田さんも 中丸さんも重山規子さんもそして有島さんもいました。おいしすぎるでしょ!
ジョーカーはさすが別格、森繁さんです。

受付の人に一応聞いてみたけどやっぱり、もう絶対売ってないそうです。
展示されているトランプは、館長の宝物なんだそうです(*^^*)

そしてそこからさらなる大事件につながっていくのですが、 勇気を出して、しかしさりげなく「館長の江原さんのファンなんです」とかって 受付の人に言ってみました。
若大将とか、メッセンジャーも観たとか言ったら、なんかすごく喜んでくれて、 「館長、今日はお昼頃までこちらにいらしてたんですよー」 と教えてくれて、そうか、それは残念だったとしずんだのもつかの間、直後、
「今、館長に電話するからこちらに来てもらいましょう!」

!!!!は!?はー?・・・あーーー!!?
あまりの突然さにそれこそてんやわんやしてる私をしり目に、 受付の人は慣れた手付きですべるようにダイヤルをおしていき、ついに 62歳の江原くんと電話がつながったのです!

「もしもし?実は今、館長の熱烈な(←注目)ファンの方がいらしてて、  ええ若いお嬢さんで・・」

おおおいおいおいおい。ますますてんやわんやする私を知ってか知らずか、 受付の人は江原さんに、来れるかどうかをたずねていました。
すると、今お出かけ中でちょっと無理とのことでした。

ほっとしたのと、そうか、それは残念だったとしずんだのもつかの間、直後、

「今、その方とかわりますから」

と笑顔で私に受話器を渡してくるのです。
こんな展開ってありですか・・。
もう息がとまる思いで受話器に耳を近付け、私は声をふりしぼって言いました。

「もしもしっ(>0<)」

「ハアーイ(^0^)v 」

う、うわああ、、、江原くんの声だ。昔とおんなじだ。江口さんだ(T_T)

その後は緊張し過ぎてはっきりとはおぼえてないのですが(/_-;)
電話をくれれば、用事がない限りいつでも来てくださるそうです!

というわけで、なんと江原さんと電話でお話してしまいました。みずいらずで。

「○○でさぁ」って感じの話し方で、すごく気さくでいい方だと思いました。
本当に、全然当時と声変わってなくて、あの甘くてちょっと高めの。
気分は照子さん(か、いいとものタモリ)でした。

なんか信じられません。まさに夢穂高でした。幸せすぎ。

結局その後はいろいろ疲れ過ぎてしまって(笑)
そこだけ行って帰ってきました。

夢穂高美術館、ぜんぶ最高です。またパンフレット送りますね。
河合さんもぜひ行ってみてください。
そして江原さんにもぜひお会いしてください。私もいつか会いたいな。

それでは。

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以上がKさんからの報告です。
Kさんよかったですねえ。
私はKさんが江原氏とお話ができたことが自分のことのように嬉しかったし、江原氏のファンに対する姿勢に感動しました。
やっぱり東宝の俳優さんはいい人ですね。


1999年9月27日
CG

 スターウォーズのエピソード1、まだ見てないんです。1978年の第1作公開の頃はあんなに夢中だったのに。
 これでけっこう私も東宝しかない、みたいに言っているわりにはアメリカのSFモノも少しはいける口で、1980年前後ころにはよく見たし、今でも好きな作品も多いです。
 たとえば月並かもしれませんが、エイリアン(1のみ好き)、ブレードランナー、未知との遭遇、バックトゥーザフューチャー(1・2)のあたり。(1967年の「2001年宇宙の旅」は別格として)
 このあたりから後はSFがだんだんと迫力のみ重視のアクションになっていったり、E.T.から後のスピルバーグやジェームス・キャメロンがあまり好きでなく(なんか、ヒットメーカーとしてのコツをつかんだ小手先だけの感動のような気がして。)しだいに興味が失せてしまったのですが。

 ルーカスがスターウォーズの最初の三部作を作った後、将来はコンピュータグラフィクス(以下CG)が発達して、もうミニチュアなんて作らない時代が来るだろう、と言っていて、私はまさかそんなことはないだろうと思ったのを覚えています。ところが本当にそうなってしまいました。だってあの頃のCGといったら単純な面で構成されたごく簡単なものでもスゴイスゴイっていう時代でしたからね。こんなものが本物と見まごうばかりの精巧なミニチュアワークにとって変わることができるなんて、どうしても考えられませんでした。

 それがターミネーター2あたりから本格的にCGが使われだし、ジュラシックパーク(話は変わりますが、ジェラシックパークと思っている人がすごく多いですよね。ジェラシックパークでは『嫉妬の園』になっちゃいます。それはそれで面白そうな映画ができそうですが)ではほぼ完全に従来の手法にとってかわり、以降の作品ではCGはごく一般的な、なくてはならない手法にまでなりました。
 もう、何でもできてしまうCGというわけです。めでたしめでたし。

 いや、ちょっとまってください。何でもできる、というところに、私は落し穴があるような気がしています。
 通常のやり方では撮影不可能なことを実現させるのが特撮。(SFXっていうんですか?)CG以前ではミニチャアをつかったり、実写と合成したり。見るほうもそれを承知で楽しむわけです。「わあ、よく出来てる!」とか「本物みたい!」とか「どうやって撮影したんだ?」とか。それが楽しみでした。
 それがCGだと、どんなによくできていても「だってCGでしょ?」の一言でかたずいちゃいますよね。
 昔はよかった、とか稚拙な特撮のほうが味わいがある、などと言いたいのではありません。言いたいのではないのですが、現在の私は正直言ってミニチュア、着ぐるみ、特殊メイク、などなど、昔ながらの手法の方にどうしても魅力を感じてしまいます。
 ジェラシックパークのテーマは「恐竜を現代によみがえらせること」ではなく、「CGってすごいでしょ」 だったような気がします。そういう映画としてとても面白く、私もわあ、CGってすごいなあ、と思いました。でもこれからはどうでしょう。
 しかし何でも表現できる優れたテクノロジーを手に入れたのですから、これからはCGがますます発達していくのは確かでしょう。そのかわり、どんなことでもできるのなら、どんなことを、どう表現するかのセンスはいままで以上に必要になってきたとは言えると思います。

 そういう私も大好きなCGシーンがあります。「フォレスト・ガンプ」の冒頭です。一枚の白い鳥の羽が風に舞いながら空をさまよっていて、うまい具合にカメラが追っているなあ、と思っているうちに、だんだん羽は地上に近づき、走る車の屋根をかすめ、ついにはベンチに座っている男の足下にふわっとたどりつき、男がそれをそっとつまむまでの数分をワンカットで見せます。私は、うわーっ、なんだなんだ、どうなってるんだ、と感動しました。そして映画の最後のシーンでもこの羽は登場し、またまた感動させてくれます。これが映画だなあ、と思いました。もしまだごらんになってなかったら、ぜひ見てください。このCGシーンだけでも300円(ビデオレンタル料)の価値は十分あります。

 なんだかいろいろ生意気を書きましたが、 最後にあるアメリカの特撮マンが言った言葉を紹介します。
「私達の仕事は皮肉なものだ。だって本当に完璧な仕事ができたときには、観客は誰もそれに気付くことができないのだから」


1999年8月21日
円谷プロのこと

 円谷プロダクションといえば知らない方はあまりいない思いますが、東宝のSF、怪獣モノや戦争モノなどで特撮の指揮をとられていた(作品では本編の監督と並んで特技監督とクレジットされている)円谷英二氏が興された特撮専門の制作プロダクションで、ウルトラシリーズの制作などで知られています。

 東宝大好き人間である私ですが、東宝との関係はファンとしてのほかは全くありません。しかしかなり間接的でもということなら、円谷プロでアルバイトをしたことが一度だけあります。それも30年も前のことなのですが。
 当時、大学の1年生か2年生だった私は、もっと子供の頃からの延長で特撮にはおおいに興味を持っていて、円谷プロの現場といえばたいへんなあこがれでした。ぜひなんとかアルバイトでもできないかと思い、募集していたわけでもないのにダメモトで円谷プロにおそるおそる電話してみると、なんと即採用。そしてまわされたのが『ミラーマン』の制作現場でした。

 円谷プロ設立の第1作はTBS系列で放映された『ウルトラQ』で、この好評により、『ウルトラマン』、『ウルトラセブン』といったシリーズへと発展するのですが、『ミラーマン』はフジテレビ系列のために作られた怪獣ドラマです。設定はウルトラマンなどと大同小異で、何でだか週イチのペースで現われる怪獣をヒーローがやっつけるというおなじみのものです。

 その『ミラーマン』の特撮関係の製作、撮影は、世田谷の砧(きぬた)にある東宝撮影所から近い国際放映(東宝系の制作会社)スタジオで行われてて、私はそこで約2か月間、仕事をさせてもらいました。そこでは役者さんなどを見かけることはなかったので、本編(特撮でなく出演者が演技する部分)は別の場所で撮影していたのでしょう。
 敷地内にある古い木造の、決して広くも快適でもない建物が私たちの仕事場でした。私以外に数人いたアルバイト達は皆、美術系の学生だったようでした。
 怪獣にこわされる建物のミニチュアを製作したりするのが私達の主な仕事でした。一番記憶に残っているのは、怪獣が空を飛行する時の撮影に使う30センチくらいの小さな怪獣を私ひとりで作らせてもらったことです。こういうことは模型作りが趣味であった私の得意分野だったので、美大生でもない私にもなんとかこなすことができたように憶えています。

 私たちアルバイトの仕事は楽なものでしたが、円谷プロの社員の人たちは本当に大変です。この人たち、いつ寝てるんだろう、という感じです。私たちアルバイトが仕事を終え、夕方帰って、次の日の朝出勤するとまだ昨日いた人たちが徹夜で仕事をしていたりします。仕事に対する情熱あればこその、ほとんど喧嘩まがいの打ち合わせなどもよく見ました。
 できあがった作品の試写も見るひまがないようで、実際にテレビで放送される時間になると、スタジオの近くにある喫茶店にみんな集まって、店のテレビを囲みます。特撮のシーンになると歓声があがったり、じっと見入ったり。私たちアルバイトの作ったモノが出てきても「あれ?映ってた?」「え?これだけ?」といったことが多いのですが。

 よい思い出をつくらせてもらい、ほんのわずかな一時期でも一員の片隅にいたという誇りを与えていただいた円谷プロに感謝いたします。


1999年8月20日
がんばれジャイアンツ

 プロ野球では私はまあ、しいて言えばジャイアンツファンなのですが、うちの奥さんはすごい。コテコテのバリバリのジャイアンツファンです。ケータイのストラップには何やらマスコットがジャラジャラついてるし、Tシャツの背中にはMATSUIだとかKIYOHARAだとかプリントしてあるのを着ているしで、毎日のテレビ観戦はさぞや大騒ぎ、と思いきや、意外とじっとテレビを睨みつけているのは、かえって不気味ですらあります。
 面白いのはそうやってテレビを見ながら、ビデオにも録画をしているのです。試合に勝てば後でそれをうれしそうに見入り、負ければ消してしまいます。勝った時のテープはいつまでも消されずに残っています。
 昨日までジャイアンツは首位中日との三連戦だったのですが、神も仏もないものか、なんとジャイアンツは三つともやられてしままいました。落胆と不機嫌の頂点の奥さんはどうしたかというと、これが笑っちゃいます。ずいぶん以前にジャイアンツが勝った時のテープを引っぱり出してきて見ていました。それも中日戦のを。



1999年7月23日
加山雄三ミュージアム

 「似顔絵のお姐ちゃん」の作者、Kさんは、伊豆の堂ケ島にある「加山雄三ミュージアム」にも行ってきたそうです。いやもうスジガネイリですな。
 その存在は私はなんとなく知っていましたが、Kさんからパンフレットを送ってもらって見ると、意外といってはなんですが、かなり立派なもののようです。これは行かなくてはいけないな、と思ってます。私が行かなくて誰が行くんだと思ってます。
 まず楽しそうなのがレストラン。「光進丸カレー」とか「田能久すきやき丼」とか「若大将ラーメン」とか泣けてくるような笑えてくるような。
 もうちょっとつっこんで「銀座ノースポール残飯鍋」とか「汲み取り口の蓋鉄板焼」とかあればいいのになと思いました。本当にあったら食べないかもしれないけど。
 画家・加山雄三の作品はもちろん、若大将シリーズの小道具の展示やセットの再現もあるらしいです。ああ早く行きたい。


1999年7月20日
プロマイド

 浅草にマルベル堂という老舗のプロマイド屋があります。当ホームページの「似顔絵のお姐ちゃん」の作者、Kさんがマルベル堂へ行って、団令子さん、佐藤允さん、江原達怡さんらのプロマイドを買ってきて見せてくれました。もちろんいちばん活躍していた当時に撮影されたものです。そういうのが今でも売られているんですねえ。行くところへ行けば、今でも現役という感じがしてうれしくなります。
 そしてマルベル堂ではプロマイドの撮影もしてくれます。Kさんも撮影してもらったそうで、あとで送ってくれたのですが、これがすばらしい! Kさんは大の三木のり平ファンなので、丸いメガネを鼻にずらしてかけて、上目づかいがもうバッチリ! 撮影技術もさすがの出来です。そして三木さん風のサインまでしてあって、何考えてんだといった感じで大笑いです。
 わたしもそれに刺激されて撮ってきました。どういう趣向にしようかなあ、やっぱりスーツにピストルで渋い悪役かなあ、などと考えましたが、持っていこうと思ったおもちゃのピストルがみつからず、おまけに当日は台風みたいな大雨だったので、普段着で出かけました。
 撮影はプロマイド店とは違う場所のスタジオで行われます。衣装なども少しはあるようなので「ピストルはありませんか?」と聞くと「ピストルはないんですよねえ。カウボーイハットならあります」と言うので「あ、それならいいです」ということで、結局何も身につけないで(裸という意味ではなく)撮りました。
 できあがりに1週間ほどかかるのですが、その待ち遠しいこと。郵送してもらって見てみたら、なんだ、そのまんまじゃないか、もっとかっこいいはずなのに、と一瞬思ったのですが、でもそれはしょうがないですよね。いくらマルベル堂でも。
 私も自分のプロマイドにサインをして飾ってあります。何やってんですかね。


1999年6月5日
三木のり平さんの本

 三木のり平さんが自分の生い立ちや芸についての考え方などを語ったインタビュー集が出たので読みました。 『のり平のパーッといきましょう』(小田豊二著・小学館)という本です。
 三木さんはやっぱりすごいや、と改めて感じました。
 私たちは三木さんといえばどうしても社長シリーズの宴会部長、という印象なのですが、三木さんは「あんなものクソみたいなものだよ。くだらない映画だよ。」と言います。たしか以前に森繁さんも同じように言っていました。謙遜などではなく、本当にそう思っているのでしょう。あんなものだけで役者としての自分を評価してもらっては困る、ということだとも思います。でも私たちがそういう三木さんに楽しませてもらっているのは事実。そういう三木さんだからこそ、出来る役、ということは言えると思います。
 もし逆に三木さんが「社長シリーズ? ええ、あれはもっと評価されてもいいと思っています。私はあの作品に命をかけて取り組みました。」などと言われたら、社長シリーズが好きな人はむしろがっかりするのではないでしょうか。映画という仕事に対してナナメに構えていながら、誰にも真似のできない仕事をさりげなくこなしています。
 今あらためて社長シリーズを見ています。三木さん、おっかしいです。脇役だからあんまりしゃしゃり出てはこないけど、セリフが無いときでも目がしっかり演技をしています。

 『のり平のパーッといきましょう』はおすすめです。「僕は役者としての人生をきっちりやってきたつもりだよ。おまえもちゃんとやれよ」と教えてくれた気がします。


1999年3月15日
モータースポーツ

 スポーツ観戦にはあまり興味がないのですが、モータースポーツ(自動車レース)だけは大好きで、特にF1は毎年楽しみです。今年もいよいよF1が開幕して、「スカイパーフェクTV!」に入ってよかったとしみじみ思う今日このごろです。(地上波では録画の放送なのですが、スカパーは生中継です)

 さて、若大将シリーズのマネージャー役などの江原達怡(えはらたつよし)さんは俳優現役の頃、モータースポーツがご趣味、というかプロで、レースにも出場していたそうです。ラリーがテーマの『ゴー!ゴー!若大将』では出演も勿論していますが、『ラリー指導』としてもお名前がクレジットされています。
 私の友人もレースが趣味で、大学生の時(1970年頃)仲間の出場するレースの手伝いに富士スピードウェイというサーキットに行ったら、江原さんも出場していて、その応援に団令子さんや、その友達たち(俳優仲間だったのかもしれない)も応援に来ていたそうです。
 まるで『若大将シリーズ』のシーンそのままを見るようではありませんか!
まるで映画みたいな情景って、本当にあったんだなあ。僕もその場にいたかった!


1999年2月27日
東京タワーに行きました。

 外国に住む知人が東京タワーのプラモデルがほしいというので、東京タワーまで行って買ってきました。東京タワーのプラモというのは、通常の模型屋ルートには存在しないアイテムで、東京タワーのおみやげ品売り場にしかないものだからです。
 地下鉄に乗って訪れた東京タワーは、以前モスラの幼虫に壊されたはずなのに何故か健在で(こんなしょうもないジョーク、年寄りでも言わない)あまりに久しぶりすぎて懐かしいという感じもなく、初めて訪れたところのようでした。(前回行ったのが、結婚前に奥さんと行ったらしいので25年も前。私は忘れたけど、奥さんが言うにはどうやら行ったらしい)
 展望台に登る覚悟で行ったのですが、一階のおみやげ売り場で目的のプラモを入手できたので、そのまま帰ってきました。どうも一人でこういう観光地へ行くというのは、気恥ずかしいものがあります。
 しかし団体客なども利用する大食堂はなかなか趣深く、昔のデパートの食堂のようです。私はそこで『タワースペシャル』(1150円。ポークソテー、エビフライ、タマネギのフライなどにライス、スープ付き)と、めちゃ甘いアイスコヒー(値段忘れた)の昼食をとりました。
 以上、所要時間約2時間の意外と楽しい東京オプショナルツアーでした。


1999年2月4日
役者の年齢

 三木のり平氏の訃報などに接すると、残念な想いをすると同時に、社長シリーズなどに出演されていた当時は何才だったのだろうと、つい計算してしまう機会にもなってしまいます。
 社長シリーズは森繁久弥が社長で製作されたのが1956年の『へそくり社長』から1969年の『社長えんま帖』までで、私が勝手に最高傑作だと思っている1962年の『社長漫遊記』を仮に全盛期として、これを中心に考えてみると、1925年生まれの三木さんは37才。もちろんご健在の森繁さんは1913年生まれの49才。1923年生まれの小林桂樹さんは39才だったのです。
 「へえ、意外と若かったんだ」と思いませんでしたか? 私も思いました。『社長漫遊記』の中で、社長に初孫が生まれて、家族から『おじいちゃん』と呼ばれると、『おい、おじいちゃんと言うのはやめてくれないか。私はまだ50には間があるんだ』というくだりがあり、私は「設定ではそうなのだろうけど、当時の森繁さんは40代ということはないだろう」と思っていたのですが、本当に40代だったので驚きました。
 なぜそう見えるのでしょう。『老けている』ということではないと思います。『時代』(ファッションであるとか、言葉使いであるとか)ということももちろんあるでしょうが、一番の原因は、今の私たちがまだ自分も若かった、あるいは子供だった時の映画を見る、というところにあるのだと思います。私たちは昔の映画を見る時、無意識のうちに自分を当時の自分に戻しているのでしょう。
 私は今49才。奇しくも『社長漫遊記』の時の森繁さんと同じ歳です。でも映画を見ていて、とても今の自分と同じ歳だとは思えません。だって私より森繁さんのほうが全然年上なのですから。そういうことです。

 しかし一般的に役者さんは実際の年令より少し若めの役を演じることが多ようですし、そのほうが自然に感じられます。1962年に三船敏郎さんは『椿三十郎』を撮っていますが、1920年生まれの三船さんは当時42才。映画の中で『あなたの名前は?』と聞かれて『私の名前は(庭の椿の花を見て思いつき)椿....三十郎、もうそろそろ四十郎ですが』というくだりがありますが、本当に30代の三船さんだったらあの重さは出なかったのではないか、という気がします。
 若大将の場合はどうかというと、第1作の『大学の若大将』(1961)で1937年生まれの加山さんはすでに24才。学生若大将最後の『リオの若大将』(1968)では31才と、やや無理をした感じですが、これは若作りの二枚目ならではの特技ですね。
 もっとすごいのは1926年生まれの植木等さんで、『日本一のホラ吹き男』(1964)では、38才なのに平気な顔をしてガクラン姿で出てきます。流石。


1998年12月11日
荻窪ラーメン

 おいしいラーメン屋さんが多いということで、最近は荻窪という地名も結構、知られてきたようです。
 私は荻窪駅の近くで商売をしていますが、「◯◯というラーメン屋さんはどこですか?」とよく聞かれます。私の店のすぐ近所にも2軒ばかり、よく雑誌やテレビが紹介しているラーメン屋さんがあるので、そこだとすぐ教えられるのですが、ちょっと離れている店だと説明しにくいので、ラーメン地図というのを作り、コピーしておいて、聞かれたら渡そうとも本気で考えたのですが、それだと特定のラーメン屋からお金でも貰っているのではないかと思われそうなのでやめました。
 初めて荻窪に来た人は、「ラーメン通り」みたいな所があって、ラーメン屋さんがまとまってあると思っている方も多いようですが、そうではないのですね。点々と何軒かが、ほかの商店と混じってあるわけです。ですから、「荻窪はラーメンの街」みたいに想像して来てみると拍子抜けすると思います。
 そしてラーメンを食べた帰りの方の感想を耳にする機会もあるのですが、「思っていたほどではないな」という感想も少なからずあるようです。もちろん好みの問題もあるでしょうが、これは荻窪に限らず、想像していた傾向の味ではなかった、ということも多いのではないでしょうか。想像していたとおりの味でないと、なかなかおいしいとは思えませんものね。アイスコーヒーだと信じて飲んだらコーラだった時みたいに。(同じような経験あります? そういう時って、ものすごい味がしますよね)
 まあ、これは適切なたとえではなかったかもしれませんが、ひとくちにラーメンといっても千差万別、いろいろあるということです。
 私の考えたおいしいラーメンに出会う理想的な条件は、
『全く期待していない。あるいは頭が白紙の状態にあって、ものすごくお腹がすいていて、しかも寒い。そういう時にたまたま自分好みのラーメン屋に入る』
ということですが、いかがでしょう。暑い時に熱いラーメンがいいんだよ、という意見もあるでしょうね。でもお腹がすいている、というのは絶対条件です。味が4倍位違います。

 さて、私が最近、ラーメン屋さんに入って気になることがひとつあります。そのことについてちょっと書かせてください。
 それは『レンゲ』のことです。レンゲ、あのセトモノとかプラスチックでできている、中華スプーンです。あれって昔のラーメンに付いてました? ワンタンには付いていたと思います。でもラーメンには付いてないのが普通で(中華レストランのような高級店の麺類は別として)、付け始めたのはここ数年のことのような気がします。私はあれがきらいで使いません。使わない人にとってレンゲはすごくジャマなものです。(スープの中に沈没したりして)スープもドンブリを持ち上げて、ズズーッと飲みます。そのほうがおいしいと思うし、そのほうが街のらーめん屋の正しい作法としてふさわしいと思うからです。でもそれは私の勝手な考えであって、ラーメン屋としても本意か不本意か、時代の流れでレンゲを付けるようになったのでしょうから、使いたい人は使ってスープを飲めばいいでしょう。女性の方などはその方がよいと私も思います。
ところが、ところがですよ、右手に持ったワリバシで麪をすくいあげると、左手に持ったレンゲの上に麪をクルクルッとのせる。レンゲの中にはスープもあらかじめ入っていて、そう、レンゲの中にミニラーメンを作るわけです。それをチュルチュルッと口に運ぶ、あの不気味ともいえる食べ方は何なのですか? そんなことしてウマいんですか? 大の男が。それがグルメってもんなんですか?
 いや、つい興奮してしまいました。すみません。でも私、ラーメン屋にそういう人がいると、後ろに回って、後頭部をグッとおさえつけて顔をラーメンの中につっこんでやりたい衝動をおさえるのに、いつも苦労をしています。


1998年12月5日
なぜ東宝なんでしょう

 『荻窪東宝』の名のとおり、私は東京の杉並区にある、荻窪(おぎくぼ)というところに住んでいます。生まれてから荻窪をはなれたことがないので、もう50年に近くなります。(あー、いやだいやだ…。ずーっと荻窪に住んでいることじゃなくて、もうすぐ50才になることが)
 荻窪には現在、映画館が一軒もありません。しかし、昭和30〜40年代の映画黄金時代には、荻窪にも5〜6軒の映画館がありました。その中に『荻窪東宝』という名前の東宝封切館も実際にありました。このホームページのタイトルは、その名前を拝借させてもらっています。

 当時の映画館では、その映画館独自に作った「チラシ」を切符の半券といっしょに入口のところで入場者に無料で配っていました。B5版二つ折りくらいのザラ紙に、上映中の映画の簡単な解説などが印刷されているものです。そこには地元の商店の広告も小さなコマに仕切られてたくさん出ていました。私の家は商売をしていて(今もしているが)広告をいつも載せていました。広告を掲載した店には月に2枚の招待券がもらえるという特典があり、当時、小、中学生だった私はいつもそれを独り占めして、せっせと映画を見に行ったものです。子供のことですから怪獣ものや、特撮の戦争ものが好きだったのですが、いつもそういったものばかりではないので、何でも見ました。社長シリーズや駅前シリーズなどを小学生が一人で見ていたのを今考えると、なんだか不気味なものがあります。しかし、そうやって『東宝』が私の体にどんどん蓄積されて行き、ついには東宝なしでは生きていけない、まるでマタンゴのような人間になってしまったのです。
 しかし、作品を系統立って研究しているわけでもないので、そういう点はもっと若い世代の映画好きの方のほうが詳しいでしょう。私はまあ、東宝作品が肌が合うというか、東宝作品の徹底した都会的エンターテイメントにひたって、当時の人々の生活ぶりに想いを馳せる、というのがとても楽しいのです。

 ところで私は今まで、自分を加山雄三(若大将)だと思っていました。でもこのまえ、ふと、「いや待てよ、俺はもう加山雄三じゃなくて、有島一郎(若大将の親父)なんじゃないか?」と気がついてしまったんです。私の娘も来年から大学生、シチュエーションから言っても文句なく有島一郎なのですが、「いいや、俺は一生、加山雄三でいるぞ!」と心に誓った私でした。




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