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名もなく貧しく美しく (1961)監督・松山善三


開始より0:18(東京都渋谷区代官山町・JR山手線、東急東横線交差地点付近)

「僕は今、鋳物工場で仂いています。父も母も兄弟もありません。みんな戦争で死にました。僕みたいな不具者だけが生き残ってしまいました」
「どんなに苦労しても、生きている方がいいと私は思います」
「そうでしょうか・・・秋子さん、どうか僕の友だちになってください」



(撮影・2011・08・17)

↑ 終戦をむかえて間もない頃、電車が走っている脇の坂道では闇市が開かれ、人でごったがえしている。
聾唖(ろうあ)学校の同窓生だった道夫(小林桂樹)と秋子(高峰秀子)が、そこで偶然出会う。




(撮影・2011・08・17)

↑ 道夫と秋子は手話を用い、お互いの身の上を話す。高架上を、そして地上を、電車が轟音を立てて通り過ぎる。

ここはどこだろう。
高架を走る鉄道と、地上を走る鉄道とが、直角に近い角度で立体に交差している。そして高架線路の脇には狭い坂道があり、坂を下りきったところで地上の鉄道に突き当たる。これらは特徴的だ。全国的に見てもそう数多くはないだろう
ネット上の地図で、まず都内を中心に鉄道が直角に近い角度で交差している地点を見つけ、ストリートビューで線路脇にこのような坂道があるかどうかを確認していく。この作業をくり返しているうち、割合と簡単に見つかった。坂道も当時の状況に近いまま残っている。
東急東横線が渋谷駅を出るとまもなく、線路が右にカーブして、地上を走る山手線をまたぐ地点にさしかかる。東横線が代官山駅に着く手前がその地点だ。

現地に行ってみる。ここで間違いないようだ。闇市の撮影に使われた坂道は、この坂の上にある大型マンション(1970竣工)に通じる専用路になっている。映画撮影時はマンションが建つ前だが、当時もその坂の上の敷地へ行くための道だったのだろう。これは私道かもしれない。私道なら許可さえ取ればむしろ撮影はやりやすかった思う。
今度ここを訪れることがあったら、コンクリートの壁面に通過する東横線の電車の影が写る、朝の時間に行ってみたい。

(追記・東急東横線のこの区間は2013年に地下化され、高架線路、鉄橋は撤去されてしまった。しかし坂道は残っている)




(撮影・2011・08・17)

↑ 地上を走る山手線の線路の反対側から、道夫と秋子が立っている闇市の坂道方向を撮影したカット。カメラの前を電車が轟音を立てて通過する。
このカットを撮影したであろうカメラの位置は、現在工事中で立ち入ることが出来なかった。なるべくそれに近い位置で撮った写真がこれだ。東急東横線の高架支柱も工事中でパネルに囲まれており、闇市の坂道の石垣も残ってはいるものの、蔦や樹木で覆われている。




(撮影・2011・08・17)

↑ 線路際に立つ道夫のアップ。有刺鉄線を張った棒杭は金網のフェンスに変わっているが、山手線の架線の支柱が当時と変わっていないことに驚く。




(撮影・2011・08・17)

↑ 道夫と向き合って山手線の線路際に立つ秋子のアップ。背景上部に高架の東急東横線。
(以上2011年・記)




開始より0:28(神奈川県横浜市鶴見区下野谷町3丁目・JR鶴見線鶴見小野駅付近)

「待て! おい、待てよ! そのズック下げた奴、待てったら待たないか! 野郎、聞こえないふりしやがって」



(撮影・2012・08・26)

↑ ある日、道夫と秋子は動物園に遊びに出かける。その帰り道、二人はとある駅に降りる。秋子は駅員に切符を渡し、道夫は定期券を見せ改札口を抜ける。




(撮影・2012・08・26)

↑ すると改札係の駅員(南道郎)が定期券をうまく確認できなかったのだろうか、道夫を呼び止める。二人は耳が不自由なのでそれに気付かず歩き去る。 駅員は「聞こえないフリしやがった」と怒り、二人を追う。




(撮影・2012・08・26)

↑ 気付かず、駅から線路沿いに遠ざかる二人を追う駅員。
線路脇はここも闇市で賑わっている。




さあ、この駅、どこだろう。
見当もつかなかった。対向式のホーム、ホームのすぐ脇を渡る踏切。どこかの私鉄駅なのだろうが、いったいどこなのだろう、と考えていた。
広告の看板が手がかりになることがある。当時の広告は、その近辺にある医者とか質屋の場合が多い。現在も残っていればインターネットの検索で、だいたいの場所がわかることがある。
改札口を通る場面に「汐田病院」と書かれた看板が見えた。検索してみると横浜市鶴見区に同名の病院がある。「汐田病院」、ありふれた名前ではない。
画面をさらによく見てみる。駅の壁の張り紙に「日本国有鉄道」の文字がかすかに読めた。
「え!国鉄?」
試しに付近のJR駅をストリートビューで探してみたところ、「汐田医院」から3〜4キロ離れているが鶴見線の鶴見小野駅が酷似。
ストリートビューによる現在の様子では踏切の向こうに角を切った形の白い建物(この建物、戦後間もなくにしてはモダン過ぎるようだ)が見えないが1963年の航空写真には写っている。間違い無し!
それにしても木造の駅舎がまだ残っていたのはラッキーだった。



駅員が向こうから走ってくるカットで、左側に闇市に人が大勢集まっている様子が写っている。現在は飲食店など商店が数軒並んでいる。当時はどうなっていたのだろう。作品では木製板状の高い塀が立っている。板塀には戦後間もなく、という時代を強調するような張り紙などがしてある。
想像だがこの通りの家並み、再現しているこの時代らしくないものだったのではないだろうか。それを撮影の時だけ板塀を作って隠しているような気がするのだが。



この作品が公開されてから、半世紀以上が経つ。もう遠い昔とも言える年月が経ってしまった。この作品のような年月が経った作品で、しかも内容は撮影時点よりさらに過去を描いている、という映画を見ていると、私はつい勘違いしてしまうことがある。それはその作品が描こうとしている時代に撮影が行われたと、つい錯覚してしまうのだ。時代劇などは別として。
たとえばこの作品は1961年に公開されたのだが、当時にしてみれば戦後まもなくの時代からは十数年が経っているわけだ。だから当然、設定している時代にはありえないような近代的なビルも建っていたし、自動車や鉄道車両なども変化している。そういった物が画面に写らないように苦心がなされているはずだ。 ところが私たちが製作から何十年と経って、こういった作品を見る時、画面に現れる建物や街の様子、服装などの風俗や文化は、撮影された時代のものだと、つい勘違いしてしまいがちではないだろうか。
1961年の公開時にこの作品を見た人は「ああ、この終戦当時に比べると今は街の様子など、ずいぶん近代的になっているのに、この映画は終戦当時のように見えるロケ地をうまく選んだり、服装などもよく再現しているな」と思ったはずだ。しかし現在、この作品を見てもなかなかそこに気づきにくい。念入りな時代考証をしている作品ほどその勘違いに陥りやすい。

なんだか当たり前のことをくどくどと書いてしまったが、「さらに過去を描いている昔の作品を今見る」ということは、どういう時代にどういう時代を再現しているのか、ということを考えながら見るということで、それはとても興味が湧いてくることだと思うのだ。




開始より0:31(神奈川県横浜市西区宮崎町・伊勢山皇大神宮)

道夫と秋子は神前で祝言を挙げる。
ここは横浜、桜木町駅に近い「伊勢山皇大神宮」



(撮影・2016・05・03)

↑ 本殿は関東大震災で倒壊し、1928年(昭和3年)に再建された。映画撮影時と同じ本殿が今日も参拝客を迎える。




(撮影・2016・05・03)

↑ 神前で玉串を奉納する道夫と秋子。
現地に行くまでは、賽銭箱の内側には入れないものと思っていたが、入ることができたので作品に近い位置から撮影することができた。




(撮影・2016・05・03)

↑ 神前での儀式を済まし、幅の広い階段を降りてくる道夫と秋子。
現在では階段の幅が狭まったように見える。当時の写真を探したり、航空写真で確認しようとしたのだが、どうも確認できない。しかしおそらく、2メートルばかり狭まったようだ。何故だろう。
こちらから見て階段の左側は古い石垣になっている。後からわざわざ土を盛って石垣にしたとは考えられない。階段の右側を削って狭め、階段右側から入る自動車用の通路を広くしたのだろうか。




(撮影・2016・05・03)

↑ 上記カットからカメラは右にパンし、貸し衣装の店が写される。
これはこの位置に建っていた商店、あるいは住宅の表面だけ覆うように作ったセットではないだろうか。
「鶴乃屋貸衣装店」と書かれ、住所は「横浜市中区野毛町四三六番地」となっている。しかしここは中区野毛町ではなく西区宮崎町だ。当時と住所表示が変わっていないとすれば明らかにセットだ。
「急がないと汽車の時間に間に合わないぞ」とせかされながら慌てて衣装を返し、新婚旅行へと出発する道夫と秋子。





開始より0:42(神奈川川崎市川崎区扇町・JR鶴見線扇町駅付近)

「お母さん、赤ちゃんの耳は?」
「聴こえるさ、聴こえるとも、聴こえなくてどうする。ほら、泣いてるだろう、大きな声を出して。お前の手に響くだろう? 分かるだろう?」

↓ 道夫と秋子に子供が授かる。
出産した病院へ秋子の母親、たま(原泉)が駆けつける。道夫が喜びで躍り上がるようにして迎える。



(撮影・2016・07・17)


↓ 道夫の案内で秋子と子供が待つ病院へ。「島田産院」と看板が出ている。




(2016・07・17 撮影写真に映画画面をはめ込み)

ここが何処なのか、特定するのは長年の課題だった。後述するように、そもそも道夫夫婦の住居が何処にあるのかはっきりしないということもあり、何処をどう探せばいいのか絞れなかった。
最初に挙げた秋子の母、たまが道夫に駆け寄るカット。これを見ると線路脇にあるようなの柵が見え、架線柱も写っている。地上を走る鉄道が通っているのは間違いない。左右に通る鉄道の向こうに大きなタンクが見える。ガスタンクだろうか。どこか工場地帯にあるタンクだろうか。しかし地域が絞り切れないのでは、タンクと鉄道だけの手がかりで地図や当時の航空写真から見つけるのはかなり難しい。



↑ 母親たまが駆けつけるその途中で商店の看板が写る。「みのるや」という屋号の下に住所が書いてある。 「川崎市〇(漢字一文字)町」と見える。
〇は广(まだれ)の字だと思うがよく読めない。麻? 廊?廓? いずれにしろ現在の川崎市にこのような町名は見つからない。(現在の川崎市には「区」があるが、それは川崎市が政令指定都市になったのは1972年からのことなので、この時点で「区」が無いのは間違いではない)
この看板は撮影用臭いと思うがどうだろう。だとしたら意図あって川崎市に見せたいのだろうか。



ということを書いたらOさんという方からご連絡をいただいた。

「これは「扇町」ではないでしょうか。
川崎市川崎区に扇町はありますね。
左の方に鉄道の高架のようなものが見えますが、鶴見線でしょうか。
鶴見線扇町駅の近くのような気がします」




「扇町」と書いてあったのか!読めなかった!
鶴見線「扇町駅」の近く。早速ストリートビューで付近を見てみる。道夫、秋子の母たまが産婦人科に駆けつけた道はあるだろうか。 あった!ありました!タンクは現在は残ってないようだがここで間違いなし!
ああ、ここだったのかあ!やっぱり川崎市で正解だったのかあ!
Oさん、ありがとうございました。実際に行ってみて「ここだったのかあ」と感慨に耽ってまいりました。




(撮影・2016・07・17)

↑ JR鶴見線扇町駅。道夫と秋子が動物園に行った帰りに降りた「鶴見小野駅」を見に行ったのが4年前。また鶴見線駅に来た。Suicaカードで通る無人駅だ。昼下がりの時刻には一時間に一本くらいの電車しか来ない。改札口で猫が三匹のんびりしていた。




(協力・0さん)



開始より0:45・2:04(神奈川県横浜市神奈川区東神奈川2丁目・能満寺)



せっかく授かった子供だったが、死なせてしまうという悲しい出来事が起こる。
その時の埋葬のシーンと、そしてラストシーンとで二度、墓地のシーンがある。同じ墓地だ。どこなのだろう。



↑ 子供を死なせてしまった時の墓地シーンの遠景に、いくつも円筒形を並べたような形の工場らしき建物が見える。建物の上部には会社名が書かれた看板があるようだが「日本」はなんとか読めるものの、後は分からない。しかし、たまたまなのだが、横浜市に似たような形の「日本製粉」の工場があるのを知っていた。このような形状の建物は工場地帯にはよくあるのかもしれないが、もしかしたら「日本製粉」()かもしれない。これまでのこの映画のロケ地の傾向として、横浜市は大いにありえる。
そしてラストに登場する同じ墓地のシーンでは、鉄道の架線柱がすぐ近くに見えている。
墓地の遠景に「日本製粉横浜工場」。すぐ近くに「鉄道」。この条件で考えてみると、鉄道は京浜急行ではないかと思える。京浜急行の仲木戸駅か神奈川新町駅の付近だと日本製粉の工場の円筒形を並べたような建物が、ちょうど良い角度で見える。
この付近を調べてみると、何故か寺がとても多い地域だということがわかった。その中でも日本製粉が見える角度を考えると「能満寺」か「良泉寺」。どちらかで間違いないと思う。
(2016年・記)
(2021年・後記)「株式会社 日本製粉」は2021年、「株式会社 ニップン」と社名変更.





と書いたところ、Mさんという方からご連絡をいただいた。

「横浜市神奈川区の良泉寺と能満寺が候補に挙がっていましたが、画面にあらわれた墓の周りに立ててある「卒塔婆」に「真言宗」の「南無大師遍照金剛」という名号が記されているので、「能満寺」と特定できると存じます。ちなみに「良泉寺」は「真宗大谷派」の寺であるようです」(抜粋)





あっ! 寺の宗派にまで気が回らなかった!
確かに墓地シーンでは卒塔婆(そとば。墓の後ろに立てられている文字が書かれている木の板の事。塔婆(とうば)とも言う)がたくさん映し出されている。Mさんの言う通り卒塔婆には「南無大師遍照金剛」(なむだいしこんごうへんじょう)と書かれている。これは真言宗で唱える短いお経。
調べてみると確かに「能満寺」は真言宗の寺、「良泉寺」は「浄土真宗大谷派」の寺なのだ。浄土真宗は考え方の違いにより、卒塔婆というものを立てない。ロケ地は「能満寺」で間違いない.

いやあ、Mさん、おかげさまでスッキリしました。どうもありがとうございました。
(2019年・記)




開始より0:57(東京都世田谷区三宿1丁目・多聞寺橋付近)

秋子ら夫婦に二度目の子供、一郎が生まれる。勤め帰りの夫と家の近くの川沿いで出会い、親子三人で橋を渡るシーン。



(撮影・2011・08・18)

↑ この川は目黒川の支流で「烏山川(からすやまがわ)」という。作品に写し出されている橋は「多聞寺橋(たもんじばし)」というが、このあたりは現在、暗渠(あんきょ・川に蓋をした状態)になっていて橋は存在しない。
以後この橋は作品中に度々登場する。




開始より1:06(東京都世田谷区若林3丁目・環状七号線歩道)

道夫と秋子の子供、一郎は小学校に入学する歳になった。何があったのか逃げる上級生を追いかけ、喧嘩をする一郎。



(撮影・2011・08・18)

↑ 一郎に追われた上級生は大通りを渡り、歩道で一郎に組み伏せられる。そこには今も変わらず東京都水道局のマンホールが。
後述するが、ここは世田谷区若林。大通りは環七だ。
このマンホール、現地に行けばまだ絶対ある。と、なぜか予感していた。




開始より1:06(東京都世田谷区三宿1丁目・多聞寺橋付近)

雨の日、傘を届けに一郎の学校へ迎えに行く秋子が多聞寺橋を渡る。



(撮影・2011・08・18)




開始より1:28(東京都世田谷区三宿1丁目・多聞寺橋付近)

秋子の弟、弘一(沼田曜一)が金を工面するために、秋子のミシンを奪ってオート三輪に乗せ奪い去る。追いすがる秋子。
ここも多聞寺橋を渡るあたり。



(撮影・2011・08・18)

↑ 橋の欄干はもう存在しないが、暗渠を遊歩道に利用しているので、それを区切るガードレールのようなものが同じ位置にある。




開始より1:30(東京都豊島区南大塚〜北大塚・JR大塚駅、都電大塚駅前停留所付近)

度重なる不幸に耐えてきた秋子であったが、実の弟から大事なミシンを奪われたことが引き金となり、絶望の末、ついに死を決意するまでに至る。
夫への書き置きを残し、電車に乗ろうと駅に向かう秋子。



(撮影・2010・10・24)

↑ ここはJR大塚駅南口だ。高架上を走るのは山手線。その下を都電荒川線がくぐっている(画面左端)。




(撮影・2010・10・24)

↑ 書き置きを見つけ、秋子を追う夫、道夫。
ここは大塚駅のガード下にある都電荒川線大塚駅前停留所だ。
この停留所、黒澤作品の「生きものの記録」にも登場する。(ただし「生きものの記録」では撮影所に作られたセット)
映画的に「絵」になる場所なのだと思う。



大塚駅のホームでようやく追いついた道夫は秋子の乗った車両の隣の車両になんとか乗り込むことができる。そして二人は連結部分の窓越しに手話で想いを伝え合う。




開始より1:37(東京都千代田区外神田1丁目・松住町架道橋下)

「秋子、あなたは間違っています。結婚した時、二人は一生仲良く助け合ってゆきましょうと、約束したのを忘れたのですか。私達のような者は一人では生きてゆけません。お互いに助け合って、普通の人に負けないように生きてゆきましょう、そう約束したのを忘れたのですか。」



(撮影・2010・10・25)

↑ 秋子が書いた置き手紙は道夫によって細かく破かれ、鉄橋を渡る電車から舞う。

この鉄橋は秋葉原駅から総武線でお茶の水駅方向に向かうとすぐに渡る鉄橋だ。松住町架道橋という名称らしい。
鉄橋の形状は前後左右に対称であるから、同じアングルの鉄橋は二ヶ所から撮影できるのだが、太陽の方向を見ると鉄橋の南側、神田川に架かる昌平橋(しょうへいばし)側から撮影されたものだということで確定だ。
電車は右から左へ走行している。ということは電車は下りの総武線ということになる。
なかなかいい巡礼写真が撮れた。総武線の車両に斜めに映るアーチの影。50年経った現在でも太陽が作る影の様子は同じように変わらない。こんな当たり前のことに妙に感激する。

秋子が思いつめた顔で電車に乗る。それを見つけた道夫も慌てて飛び乗る。しかし隣の車両だ。扉が閉まり、道夫は混んでいる車内で人をかき分けて移動し、秋子の乗っている場所へと近づく。秋子が道夫の存在に気付き、車両を隔てた手話による会話が始まる。やがて鉄橋を渡る電車の窓から、小さく破かれた書き置きの紙が舞う・・・。

この間、電車は駅に停車することなく実測6分が経過する。ちょっと長くはないか? 山手線にしても総武線にしても各駅停車しかない。通常、駅間の所用時間はせいぜい2〜3分だろう。
それと大塚駅から山手線に乗って、乗り換えた様子はないのに、何故いつのまにか総武線でお茶の水に向かっているのかが不思議だ。

ああ、このような素晴らしい名画に、つまらない突っ込みを入れる私はなんという無粋者なのだろう。
しかしついでに言うと、秋子、道夫が電車に乗るために向かった駅は確かに国電の大塚駅だ。ホームへの階段を駆け上がると、並んで向こうにもう一本ホームが見える。ホームが二本の駅だ。しかし大塚駅のホームは今も当時も1本だけだ。どうやら大塚駅ではなく、別の駅で撮影したようなのだ。






 巡礼メモ1

この鉄橋、大塚駅から乗ったのだから当然山手線にある鉄橋だと思うじゃないですか。乗りました、山手線に。先頭車両の一番前で運転席越しにじっと前を見つづける。暇な奴だと思うでしょうが。
しかし山手線を一周したけど、こんなアーチが二重になっているような特徴のある鉄橋なんて無い。
おっかしいなあ。家で都内各所をストリートビュー。ありました!なんで総武線なんだ!




開始より2:03(東京都世田谷区若林1丁目・環状七号線沿い)

秋子は一時、戦時中の爆撃で孤児になった男の子を育てたことがある。その子、アキラ(加山雄三)が立派に成長し留守中の秋子を訪ねてくる。知らせを聞いた秋子ははやる気持ちでアキラが待つ家へと急ぐ。そして・・・・・



(撮影・2011・08・16)

↑ 家へと急ぐ秋子は路地から大通りへ出て、横断しようとする。
ここは世田谷区の若林。大通りは環七だ。前に一郎が喧嘩をし、道路を渡ってマンホールの上で上級生を組み敷いたシーンと同じ場所だ。
このシーンをコマ送りで注意して見ると大通りに出る角の店は「川崎屋」という酒屋であることがわかる。現在、酒店は廃業されているが「川崎屋」と書かれた建物は存在する。




(撮影・2011・08・16)

↑ 事故があった現場がクレーンにより高い位置から撮影されている。巡礼時、この高い視点からの撮影は無理なのだが、うまい具合に当時には無かった歩道橋が架かっていた。その上から撮影。作品のカメラ位置にくらべると20メートルばかり北寄りの位置だ。それに高さも少し高すぎるがしかたがない。
環七のセンターラインから、やや外回り寄りの車道に立ち、カメラをポールで高く掲げて撮影すれば、より正確な位置での撮影が実現できるかもしれないが、現在の環七でそれは難しい。無理をしてここで車に轢かれたりしたらシャレにならない。

秋子が路地から出てくるカットと、このクレーン撮影のカットとは切り替わっているが、同じロケ地であることは間違いない。
ここは緩やかな下り坂で、坂の下には東急世田谷線が横切っている。グリーンとクリーム色の車両がそれだ。
影の様子を見ると、陽がだいぶ西に傾いている時間のようだ。撮影のために環七を封鎖したのだろうか。現在の環七の交通量の状況ではちょっと考えられないことだ。

環七のこの撮影場所を通ることは多い。フィクションとは分かっていても、ここを通る時はおもわず気持ちの中で手を合わせてしまう。





 巡礼メモ2

「川崎屋酒店」は現在はオートバイ関係のお店になっている。アメリカンなバイクの専門店のようだ。店のご主人らしい方にお話をうかがってみた。

「こちらは以前は酒屋さんではなかったですか?」
「そうですよ」
「では今は経営されている方が変わられて」
「いや、変わってないです。私の家が酒屋だったんです」
「そうなんですか。実は古い映画のロケ地に行ってみるのが趣味でして、こちらは『名もなく貧しく美しく』という作品に写っているので拝見しておりました」
と画面のプリントを見てもらうと、とても興味を示されて、「あ、ここがお稲荷さんで、ここが区の出張所」などと沿道の実際の風景を見ながら一緒に考えていただいた。
ご主人、私と同年輩か少しお若いくらいだろうか。後ろで束ねた長髪にヒゲの風貌がミッキー・カーチスさんのようで、かっこいいご主人だった。


 巡礼メモ3



作品の冒頭近く、秋子の最初の嫁ぎ先である寺が登場する。堂々とした大屋根の本堂を持つ広い敷地の寺だ。どこの寺でロケしたのだろう。
Aさんという方からメールをいただいた。
撮影当時の「キネマ旬報」誌にロケ地についての記述があるという。東京映画の関係者にインタビューし、記事にまとめたものだ。 ここに引用させていただく。(抜粋)

----- 都心から自動車で約三十分、多摩川を越えた神奈川県川崎市溝ノ口がその目的地である。
----- 広さはどのくらいですか?
「三千五百坪位ありますかな。東側に建っているのが、主人公の片山家を中心とした町です。これは年代を追って模様がえをして、現在の形が現代のものです。九月末に初めてとりかかった時は、広い敷地に片山家が一つぽつんとあったわけです。なにしろ四回も建直しをして、戦後の時代の移り変わりを出すのに苦労しました。西側に建築中のものは、映画の初めに出てくる戦災を受けるお寺の境内と付近の町です」
----- このお寺は立派なもので、焼けた感じを出すために、柱や梁を一本一本焼いてある。完成には、まだ二、三日かかるという。(中略)
文芸映画を数多く製作している東京映画の、なみなみならぬ意欲が感じられる。

といったものだ。
秋子の実家や、片山家の付近はオープンセットとは思っていたが、寺までセットとは思わなかった。いや、すごい。本当になみなみならぬ意欲が感じられるではありませんか。
Aさん、どうもありがとうございました。


 巡礼メモ4

ところで、この作品「名もなく貧しく美しく」で秋子と道夫の家族が住む家は、何処にある設定なのだろうと考えてみた。

秋子は前夫に死なれ、焼け跡に建つ実家に戻る。実家には秋子の母親(原泉)と姉(草笛光子)、弟(沼田曜一)が住んでいる。家とその近辺はセットで、何処という説明はない。この実家時代のロケシーンで、闇市への買い出しの代官山があるが、代官山はロケに最適な場所があったということで、そこに住んでいるということとは違うように思う。それに買い出しに行った闇市が住居の近くとは限らない。
もう一つ実家時代のロケシーンで、秋子と道夫が動物園デートの帰りに、国鉄鶴見線の鶴見小野駅で降りている。もしこれが道夫が秋子の実家の最寄り駅までおくってくれた、ということだとしたら、秋子の実家は鶴見小野駅に近いのかもしれない。しかしこれも代官山と同じように鶴見小野駅が撮影に最適だったというだけの理由かもしれない。

↓ 実家の具体的な場所の設定は無し、ということかと思っていたら思わぬところで見つけた。秋子に聾唖学校の同窓会の知らせがハガキで来る。その宛名がなんとか見えた。何度も画像を一時停止し確かめると、どうやら
「横浜市鶴見区(改行)小野町〇〇〇〇(番地)(改行)〇〇(秋子の元々の姓)秋子様」
と読める。
鶴見線の鶴見小野駅のロケは設定に添っていたのだった。と言うより、鶴見小野駅がロケに適していたので設定も小野にしたのではないか、という気がする。



秋子と道夫は結婚し、新居に移る。
二人が結婚式を挙げたのは、横浜市西区にある伊勢山皇大神宮。結婚式は近所で挙げるものとは限らないから、これは参考にならないかもしれない。

それにしても結婚後の住居の地域はよくわからない部分もある。
住居近くと思われるシーンを撮影したロケ場所を見てみると、

川崎市川崎区扇町(秋子が出産した産院)
世田谷区三宿(道夫の通勤、一郎の通学、秋子の弟のミシン持ち出し、など)
豊島区南大塚(秋子が思いつめ徒歩で向かう大塚駅)
世田谷区若林(一郎が通う公立の小、中学校付近)

などとなっていて、三宿と若林は近いが、大塚はかなり遠い。
死んだ子供の墓は工場地帯を臨む横浜市神奈川区。
やはり住居は川崎市という設定なのだろうか。
あ、しかしやっぱり分からない。一郎が「赤ちゃんコンクール」で三等賞をもらうシーンがある。この賞状に主催は東京都と書かれているのだ。
まあ、新居に関しては、あまりはっきりした設定はないということだろうか。
住居の近くには「あさひ通り商店会」と書かれた商店街があるが、これはオープンセットなので架空の商店街。


本作品の続篇で「続・名もなく貧しく美しく 父と子」(1967)も製作されている。監督、脚本は同じく松山善三。 一郎は成長し、北大路欣也が演じている。
それとこの一作目の「名もなく貧しく美しく」、海外向けでハッピーエンド・バージョン(!)が存在すると聞いたことがある。見てみたい気がする。


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